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「真宗カウンセリングの成立」~難しい~

 真宗カウンセリング研究会の月例会。「真宗カウンセリングの成立」を読んでいる。

 担当はTさん。ぼくやM先生以外は、まったく仏教にも真宗の門外漢の人たちだ。「真宗」や「聞法」という言葉すら、うまく読んでもらえない。

 ぼくが月例会を担当してから、30年近く立つ。当初は、西光義敞先生の「真宗カウンセリング」に関する研究や発表を聞くことを中心にした時期が長かった。そのうち、会員の発表の場となったが、参加者の中には、カウンセリングに関心はあっても、真宗には関心がないという人もあり、「真宗カウンセリング」に関しては、より深く、別組織の「DPA研究会」で研究されることになったので、当面は、カウンセリング、それもロジャーズのカウンセリングの基本を、その論文にあたりながら学ぶ場として続けてきた。
 それで、なかなか真宗カウンセリング研究会だが、「真宗カウンセリング」や「真宗」のことを話題にすることが少なくなったのである。

 それが、一昨年から西光先生の『育ち合う人間関係』(本願寺出版社)を輪読している。第二章の「真宗カウンセリングの成立」を読むと、真宗の用語や教義の話題がさけて通れなくなっている。

 いまは、「真宗カウンセリングの性格」の章。その性格を整理しなおされているのだが、その仏教や真宗用語のひとつひとつの言葉にひっかかりが出てくる。例えば、9つあるうちの8番目は次のような文章である。

真宗も人間が真の人間となる道として、独自の人間観と方法論をもっている。それは、六字の名号「南無阿弥陀仏」に集約される教法として与えられている。したがって、真宗の立場はその教法、名号法を聞く「聞法」生命としている。教法、すなわち言葉をはなれた修行によって、仏教本来の目的を達しようとする「不立文字」の「禅」とは、根本的に立場を異にする。したがって「聞法の座」すなわち「法座」を時代にマッチした新しい形で創造していこくとは、「真宗カウンセリング」の現代的使命である。

 ただでさえ難しいのに、「教法」「名号法」「聞法」「法座」などの言葉から、相手の理解にあわせて説明が必要となってくる。ましてや、なぜ真宗も「人間が真の人間」となる道なのか。「仏教本来の目的を達する」とはいかなるものか。そして、なぜ、本来称えるものである「南無阿弥陀仏」が、教法として与えられるのか。もちろんそれだからこそ、「聞法」が生命となってくるのだが、では真宗での「聞」とは何か。

 結局のところ、自分自身の理解が問われてくるかのような集りとなった。ほんとうは、単なる知識で終わっても何も分からないのだが、まず輪読であるのだから、理解していただくことから始める必要があるようだ。いや、難しかった。

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