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仏書に親しむ会 ~二つのカサ~

「二つのカサ」を読む。二つのカサとは、

 まず一つは、「法をカサ」にきる。仏法は尊いのだと、そこへ腰を据えて、間違いがないんだと、のしかかってお話をする。いかにも知ったかぶり、受け売りは誰もがやりたい。医者は、一つ間違ったら患者の命取りになるから受け売りはしない。シロウトは、ちょっと自分の病気が治ったら、この薬や健康器をとすぐ人に勧めたがる。

 二番目は、「これは教義や知識で言ってるのと違って、わたしが体験したことだ」と、「体験をカサ」にきる。自分の通った道、その枠に相手をはめていこうとする。自分の体験を絶対視していく。
 
 でも、ご法は、どこまでも自身の往生で貫いていく。自信教人信といっても、まず自信が大切。その自信が教人信に転じても、やっぱり自分に聞かせてもらう。そこが抜けると、知ったかぶりの評論家になってしまう。

 また、自分にとっては絶対的な体験も、救っていただいた他力廻向の世界。それをありがたく頂戴するしかない。私と仏様の語り合いの世界に立ち帰ったなら、人に言わずにおれんわけだが、それすらも頂きもの。そこに立つことが、私が聞かせてもらう道ではないか。

 でも、ついついご法だけでなく、親が子供に言う時でも、自分の経験やあるいは育ててきたんだというところから話をしてしまう。でも子供はそういう説得調は大嫌いで、「うるさい」とはねつける。本当は、子供を通して、親が育てられねばならない。

 カサをはぎ取られたら、最後に私には何が残るのか。いよいよ哀れな自分しかないなあ、ええ格好をしておっても、全部はぎとられて、裸になって出掛けて行く後生しかないなあと味合わせてもらう。だから、人さまにお話をさせてもらうのも、今度は自分に聞かせてもらうという、行って帰るべき道、そんな回路をもらうことが大切だと。

   そんな要旨だった。

   それぞれ内省される方が多かった中で、Mさん(ご主人の方)がぽつりと言われた。

「わしは、体験も、法も、難しことも知らんので、かぶるカサがある方がうらやましいわ」と。
 

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