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永代経法要~仏様の大芝居に参加する~

今年は日高支部がお当番。少数精鋭で頑張ってくださった。おかげでいいご法座となった。法座は、講師だけが頑張ってもダメだ。まず、運営をしたり、裏方で支える世話人の頑張りが大きい。お客さんばかりではダメなのである。さらには参詣の皆さんの熱情も大きく影響する。食い下がってでも聞く人がいると、話す方も力が入る。その意味では、真摯に法を求める方がおられることが、法座の生命線でもある。そして、信一念の覚悟の華鮮やかさも尊いが、信の相続もまた尊いのである。どうしても「聞いた」で卒業顔ばかりでは、法座が停滞してしまう。

その意味で今回の法座はよかった。先生方のご法話もそうだが、信仰体験発表の3名のお同行方の話がすばらしかった。ただよかったというのではなく、法への情熱を呼び起こす力があった。それは、ぼくだけでなく若手の講師方にも伝播していたのもよく分かった。

おかげで、その夜の懇親会は尊かった。20代の若い女性陣が真剣に法を聞こうとする。それに対して、しっかりと法を伝えたいという方もある。しかし、あわてる必要はない。相手の機を観ることも大切で、「欲しい、欲しい」に乗じるだけなら、つまならない喜びをつかませてしまう恐れがあるのだ。法を伝えるとは、相手を変えることではない。むしろ、変わらない自分を聞いてもらうことに意味がある。そこにほんとうにぶつかり涙したものだけが、ご法に出会えるのである。何か(大半の有り難いもの)をつかむのでも、無理強いの必要もない。お念仏だって強要する必要もない。絶対に聞けない自分に出会ったら、その機を逃さず、仏さまにぶつかって聞けばいいだけである。すると必要な方が必要な形で動いてくださるものだ。

今夜は、まさにそんなドラマが起こり、ある若い女性に本願が徹したようだ。

「私はもう聞けません。どうしたらいいのか分からない」と、泣き崩れて彼女はやってきた。ぼくには何もする力はない。ここは阿弥陀さまに相談する方しかないのである。それを促す。ただ機(人も時も)を逃さなかったら、次々と芝居のように出演者が現われてくださった。キーパーソンになった人もあれば、脇役もいた。また道化役もいた。そんな人達が、必要なことを必要なだけ働きかけてくださるのである。なかでも、親が子を拝んで頼む姿は、尊かった。まさに南無阿弥陀仏の姿を、凡夫が体現してくださったのである。しかし、彼女はいった。「いまの心のまま称えても嘘です」。「それは逆だ」とぼくはいった。「どこまでも私は嘘しかない。阿弥陀さままことしかない。私の心はどこまでも嘘。それが本当になって称えるのではなく、南無阿弥陀仏がまことなのだ」と。そんな言葉が届く時には届くのである。

虚仮不実の口から、真実の南無阿弥陀仏が止めどなく溢れ出した。一言も、お念仏を勧めなくても、自然と現われてくださる仕組みがここにはあるのだ。無理なく仏法が躍動する。皆さんも笑顔でお念仏されている。こんな大芝居の場に合わせてもらうことはなかなかない。南無阿弥陀仏

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