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西光寺別修永代経

Img_6291 聖典講座を終えて、3日間の西光寺別修永代経に出講する。5座の法座がある。平日にも変わらず、昼座は60~70名のお参りがあった。夜座は雨風が強かったが、それでも30名近くの参詣があった。 

 熱心な方がおられる。夜座は、法話の後で座談会も持つことができる。それでも、少し億劫な気持ちになるのは、大半が聞法の焦点Img_6299が定まっていないことだ。先祖供養か心の平安や学びの場としてであって、なかな自Img_6322分の問題となるのは難しい。ましてや、後生の一大事を心をかけて、一念の廃立まで押し進めてくださる方がいかに稀かということである。

 それでも、お伝えしていかなければ意味Img_6319がない。しかし自分の伝えたいことだけを一方的に話しては、単なる一人よがりの自Img_6324己満足に終わってしまう。といって、ただ皆さんに合わせた話でが終わっては単なる迎合だ。その葛藤が常にあるのだ。もちろん一年に一度だけのご縁。その後のご教化の責任者はご住職なのだから、ぼくが責任を持つことではないが、せっかく長年のご縁を結んでいるのだから、少Img_6318しでも爪痕を残していきたいと思うので、なかなか難しい。

 打開策は、自分を開いて伝えていくしかない。率直に、いまの心境を表明をしてみる。ここの方々なら、きっと聞いてくださると思う気持ちはあったが、反響はそれほどなかった。「そんな難しく考えなくてもいいんじゃないですか。まるで哲学者のように悩み必要はありませんよ」とアドバイスくださり、「私は残された人生、夫婦円満で、少しでも善いことをし、仏さまに恥じないような生活をしていければそれだけでいい。難しいことは何も考えません」とのお声と聞くと、なんとなく寂しくなる。

 それでも、率直に、3日間の法座を、自分を偽らず過ごすさせていただいた。夜座は座談会までもたせてもらい、その後の懇親会でも皆様の一言を頂いた。中には、父と子の長年の確執が一触即発の緊迫した場面まで起こってきた。こんなご縁をなかなかお目にかかれない。そこでも感じたが、誰かを変えようとか、動かしたりすることは、おこがましいことである。ただ柔軟交えながらも、自分の譲れないことは譲らず、精一杯やらせていただく以外に道はないという、当たり前のことに帰らせてもらった。

 おかげで帰路には、ちょっと元気も頂きました。


 

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