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春の仏の子供大会で感じたこと

 春休みに行われた「春の仏の子供大会」。「講習会」を2月に変更してまで春休みにこだわった。そのおかげで、久しぶりに参加者が多かった。班対抗での活動ができたのである。

 ただ、以前と違ってきている。子供たちもいろいろな個性のある方がおられて、一筋縄ではいかない。じっとしておれなない子もあれば、極端な人見知り、声が出づらい子もいる。個性ではあるが、その中で同時に集団生活や一体感のある集いになるのかは、先生の力量もまた試されてくる。その分、先生も手厚い人数が揃った。幼稚園や小学校の先生も交じっておられるので、どうにか2日間を事故もなく過ごすことができた。それが一番有り難かった。

 そしてもうひとつうれしかったのは、3回の法話のうち、初めて担当される方が2人もあったことだ。二人とも、子供大会の出身である。ひとりは大学生で、トップバッター。テーマ「仏さまについて」である。みんなに問いかけ、そして自分なりに考えたところを述べてくれた。子供のときに「因果の道理」ということが印象に残っていたという。ただ、仏さまに関しては、皆さんの反応(大学生の分級座談)でも、慈悲の面が中心で、なかなか智慧の面が出でこなかったのは、もう少し踏み込んで聞いてもらいたいところだ。

 もうひとりは、子供の時には随分個性的であった男性で、ぼくとしても感慨深い。
 罪悪がテーマである。ほんとうに率直に、分からないことは分からない、喜べないことは喜べないと、自然なところでお伝えくださった。子供時代は、ちょっと悪かったらしくて、それを「帳消し」にしてくれる都合のよい念仏であったらしいが、「それってすごく自分勝手な心ですよね」と、彼は言う。
 分級座談で、誰かがいった。「分からないことは分からないと言っていいのだ」と。当たり前のことであるが、それを率直に表明できるかが、結構、難しい。大人だった同じことである。みんな優等生になってしまう。その方が、信心に近いように間違うのだ。でも、彼は無明ということを、自然体に教えくれたように思えた。

 二人が異口同音に言ったことは、前に立ったらまったく違っていた。難しいかった、ということである。

 その経験が大切である。いろいろと課題もあったので、ぼくもその後で指摘させてもらったが、一度、経験したことで、それがスッーと理解してもらえるのが、よく分かった。簡単なように見えていても、伝えることの難しさを実感することは、結局、どれだけ自分が理解して身になっているのかが、問われることにほかならない。そのことに気付いてもらっただけでも、大収穫の集いだった。

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