昨年4月から凝然大徳の『淨土法門源流章』の講読を受講している。
凝然大徳は東大寺の学僧であるが、 現在でも十分通用する、三国にわたる全仏教(ただし浄土宗や禅宗はおまけ程度)を網羅する仏教概説書である『八宗綱要』の著者としても有名だ。『淨土法門源流章』は凝然大徳のもっとも晩年の書である。
冒頭はインド、中国、日本に渡る三国伝来の浄土の法流を、かなり総花的に概論している。法然聖人すら教義に関しての記述はない。ところが、法然門下にとのような門流があるのかから、急に詳しく述べておられる。
まず法然聖人の弟子の一番手として、幸西大徳(1240-1321)があげられている。ここを3回に渡って読ませてもらった。親鸞聖人の十歳上の先輩で、『歎異抄』の流罪記録に「幸西成覚房」と記されている(證空上人と同じく、この時は預かりとなって流罪は免れるが、後に流罪となる)人物である。
ところが、一念義と称される彼の教義の詳細をあまり知る機会はない。その理由とてしは、まず著書が多数あったが、ほんどが失われてしまったこと。『玄義分抄』(『観経疏』「玄義分」の注釈書)は現存するが、近代(大正年間)まで発掘されず、それ以前には研究の対象になることが少なかったのだ。
さらに、『浄土法門源流章』では、京都や阿波で教線を紹介されているが、室町期までにその流派がほぼ消減してしまい残っていない。
三番目は、同じ法然門下(特に鎮西派)では一念義が嫌われ、幸西も、法然聖人から破門された異端者だという伝記まで捏造(たぶん)されていくこと(捏造といえば、親鸞聖人までも幸西の弟子であったという記述まで含まれている。こちらも根拠はない)。
そのような理由が重なり、一般に教義に関してはあまり知られていないなかで、本書は、幸西大徳について、客観的な立場から、当時現存していた著述を繙き、記述されている貴重なものである。
その凝然大徳は、華厳宗、南都の学僧であり、浄土宗批判をした明恵上人の後輩にあたるから面白い。今日とは異なり、一宗派に固執するよりも、幅広くさまざまな教えを兼学することが高く評価されていた時代であった。彼は、若き日に、法然門下の長西より善導の『観経四帖疏』を学んでいるのだ。
その意味でも、客観的に法然門下の法流について述べるに相応しい御方であった。ちなみに、この著述には、まだ親鸞聖人の「し」の字も登場してこない(当然、他の浄土宗の祖師方の文献も同様の扱い)。法然没後100年たった時点で、親鸞門流は弱小グループだったのか、その存在感がなかったのである。しかし、ここで一番に取り上げられた幸西の一念義が、この後ほどなく消滅するのに対して、親鸞聖人御一流が、今日まではもっとも興隆することになるとは、当時は想像もされなかったことだろう。その考えると、後々の相続というのもがいかに肝要かが分かる。
ところで、幸西大徳の一念義は、法然門下でもかなり先鋭的である。一念を「一声」ではなく、仏智の一念ととられている。また、現生不退を説いたり、経に隠顕をみたり、(法然聖人と同じく)菩提心に関してもかなり大胆に捨てものとして述べている。教判も善導の二蔵二教判を受け継ぎ、菩薩蔵頓教の立場で、聖頓・凡頓として、凡頓の立場をとってとられる。
それらから、かなり親鸞聖人に近いもの(講義では酷似と表現)だと言える。が、個人的には、似かよってはいるが、同一視することはできない部分も多いように思った。
それにしても法然門下におていても、「ただ念仏申す」という称名(行)一色ではなく、信を強調する立場も強かったことが、これからも窺えた。たとえば『大経』の一念に関して、法然様は善導様に従って、すべて「一念=一声」と解釈されているのだが、幸西大徳は違う。親鸞聖人にしても、信の一念(成就文)と解釈されたり、行の一念(附属の一念)と別けておられるのだ。
すでに論文等もあるが、実際、親鸞聖人がどれほど幸西大徳の影響を受けられたのかは、興味深いところであった。