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3月の高山支部法座~厳しい一道~

 3月の高山支部法座。例年、寒い日も多いが、今年は珍しく温かった。いや、この前後だけが温暖で、今年の冬の寒さは特に厳しかったということだ。

  初日は、「門徒物知らず」考と題して。迷信や俗信などの風習に疎い真宗の有り様が、「念仏者は無碍の一道なり」といわれる、何物にも妨げられない歩みとなるのかがテーマ。実際は、(特に高山のような)゛古い共同体が残る地域では、周りが真宗者であっても、神社の行事や風習と共存しながら、真宗は生きている。蓮如上人のご教示である。「信心は内面に蓄えて、外面は王法仁義で生きよ」、つまり権力や体制とは、軋轢や摩擦を起こさず、内面深く信心を守りということが、深く真宗者に根付いてしまったのである。

実際は、職場や付き合い、家族でも、神社にお参りするが、「『南無阿弥陀仏』と申します」とか、「たとえお参りしても、皆さんのように祈願の必要がないので、楽なものです」との声があった。

決して、目くじらを立てる必要はないが、この「楽です」の一言が、ひっかかった。

ぼくには、現実生活で、この白道を貫くことは容易ではないように思えるからだ。大多数の群れる道ではなく少数派の小径を歩みことは、時に多数派からの冷笑もあり、時に軋轢も生み、また権力との衝突も起こりうるからである。もちろん、内面を抑え、和を保つとことも大切だが、社会や周りの顔色を窺い外面は隠して粛々と従う道が、ほんとうに「楽」な道なのだろうか。それで、私が念仏者であった爪痕を有縁の者に残すことができるのか。

もし、変人や異安心の誹りが恐ろしいだけなら、無碍と言えるのか。といって、ただ自信を貫き、強く頑に拒否すればよいのかと言うと、その態度が、時に「我れ善し、彼れ悪し」と、他者を批判(破邪)し、ただ安全な仲間うちだけの喜びで終わり、他者との対話の機会を摘んでいくようにも思える。

 結局、この両者の隘路(狭く険しい道)こそが、我々が歩む厳しい一道ではないのか。常に「本当にこの歩みでいいのか」と、自問し、揺れながらでも、祖師の歩まれた一道に帰ろうというのが、今日の念仏者の証のように思えてならないが、簡単に答えられなないが、だだ楽でありながらも、厳しい道のようにぼくには思えている。南無阿弥陀仏い

 

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