修正会~門徒物知らず~
風は少し強く肌寒いが、穏やかな元日を迎えた。
修正会にお参りの皆様へのご挨拶に」ついて、連れ合いが尋ねてきた。「明けましておめでとうございます」とは言っちゃいけないのか?と。それを尋ねるには理由がある。悟朗先生が、「別に正月はめでたくない。ほんとうに明けましてというのは、迷いの闇が破れた時だ。その時にこそ、初めておめでとうなのだ」という法話のエピソードを、どこかで耳に挟んでいるからだ。といって、別に目くじらを立てる必要もない。そのこころを理解したものならば、堂々と言えばいいのである。
ということで、新春の法話のテーマは「門徒物知らず」に。もうひとつ理由があっって、昨年末のカウンセリングの会合で、「実家は浄土真宗ですが、門徒もの知らずなので、真宗の教えは知りません」とご挨拶される方があったのだ。残念ながら、本来の「門徒物知らず」の意味ではない。これはしばしばよく間違われることなので、改めて「門徒物知らず」の意味を申し上げることにした。
お参りは例年より多めだ。初参加の方も多かった。ご夫婦で、ものすごく久しぶりにお参りくださる方もあって、うれかしった。また、毎年、この修正会だけお参りくださる方もあるのだ。
例年のように、一同で、「正信念仏偈」をあげ、「現世利益和讃」を頂く。ぼくは、年末から風邪気味で、声の調子が悪かったが、なんと皆様に助けていただいて、勤行を勤めることができた。
法話は、「門徒物知らず」を中心に、年末年始の所感と、今年の目標を話した。結論からいうと、阿弥陀仏に帰依し、信心一つでお救いに預かるのであるから、他の神仏を頼まず、初詣なども行わず、おみくじや御札などの占い、まじないを否定し、葬儀でも物忌みをせず、いわば世間一般の習俗に馴染まないものを(他派からの批判として)「門徒物知らず」と揶揄されたものである。しかし、それは決して恥ずかしものではない。むしろ、そこを貫きたいものだ。
その意味で、そんな浄土真宗の念仏者は、世間では少数派だろう。加えて、華光に集うものは、その真宗の中でも少数派に属する。つまり、マイノリティーを堂々と生きることこそ、無碍の一道である。決して、多数派に流されたり、媚たりするのでも、また原理主義的に孤立したり、理解者だけで群れたりするのでもなく、どうその一道を歩みのか。ひとりひとりのご信心のありようが尋ねられる大切な要点と思うのだが、如何? 具体的にお話したが、テーマをもう少し練って、温めていきたいと思っている。
どうか、今年もよろしくお願いします。
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