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福岡Y家家庭法座~身で聴く~

  福岡Y家家庭法座。

 初日は事務所での法座のあと、夜は「あり田」での懇親会。2日目は、自宅に移り、午前中はY先生のご法話。これは我が身を知る、それには鏡が必要で、仏さまに照らされた我が身の姿を、十悪、五逆、謗法罪として、ここを具体的に詳しく述べてくださったが、具体例が多くて、分かりやすいお話であった。午後からは、ぼくが1席法話をした。

 ぼくのテーマは、親鸞聖人が示された「身」を中心にした。もともとは40年ほど前にお聞かせに預かっているテーマである。
 最近読んだ精神科医の新書で、「頭」(いわば社会や教育で後天的に造られた認知)・「心」+「からだ」(本来持っている自己)が、対立したり、離反したり、「頭」による「心」「からだ」を抑え込むことで生じる、さまざまな症状に触れておられる。その先生が指摘する「心」+「からだ」こそが、「身」と言われるものだと思ったのだ。

 ところが最近の聴聞は、頭主体になっている。聞くということが、理論的に理解することのように誤解されている。だから、すぐに「根拠は?」などと尋ねて、理論武装していこうとする。
 もしくは、信仰は心の問題だと捉えるのも、一般的だ。お寺でのご法話の後で、「心が洗われた」とか、「心を入れ替えて」とか発言される方もたまにある。煩悩にしても、単に「心の問題」程度に思われている。そうなると信心すら、文字通り信じる心で、心の有りよう程度ですまされる。

 しかし、親鸞さまは「煩悩具足の身」とか「宿業の身」(さるべき業縁催さばいかなる振る舞いもすべき身)など表現されている。間違っても、煩悩具足の心とは言われていない。この煩悩にしても、歓喜にしても、「身」(からだ)と「心」に分けて味わわれ、そのような「わが身」であるという使われ方が多いのである。

 つまり聴聞は、頭で理解するのでも、単なる心の持ちようでもない。「わが身」のところで、その身を聞かせていただくのである。

 それで、聖人が「身」と使われている文章を抜き出して、大きく3分類してご法話した。主に「和讃」「一念多念証文」「唯信鈔文意」から窺った。実は「歎異抄」や「御消息」にもたくさん使われているのだが、繁雑になるので、ここではやめた。それでもA4紙に3枚分はたっぷりあった。それほど多いということである。親鸞聖人が「身」の用例をぼくなりに分類して味わっていったが、今は繁雑になるのでまたの機会に。

 このテーマはこれからしばらくじっくりと味わっていきたい。

 

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