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2018年1月の17件の記事

抜歯

  親不知を抜くことになった。

 総合病院の口腔外科である。4本あるので、2ヶ月間で2本ずつ抜くことになった。
 先に通っていた連れ合いからは、相当脅されていた。特に40を過ぎていると骨と癒着していたり、虫歯なので途中で折れたりすることもあるという。その後、腫れて数日間食事ができなかったという人の話も吹き込んでくる。ところが、後から通院したぼくの方が、一足早く抜歯することになった。

 身を硬くしながら、15分前に待合室へ。すぐに簡単な説明があり、麻酔された。そして抜歯である。両方合わせて10分足らずで、あっという間に終わった。予約時間になる前に終了していた。痛くなかったが、緊張して肩が凝っていた。今は痛くなくても、数日間は痛みや腫れが出るそうで、抗生物質と痛み止めが処方された。

 多少の覚悟をしていたが、幸い、夜になっても痛みはなく、痛み止めを呑む必要もなかった。完全に止血していないので口の中が少し気持ちは悪いのと、食事も少し噛みづらかったが、不便はその程度で、ホッとした。ただし入浴は、今日は禁止。加えて、「できれば、アルコールは1週間抜いてください」との説明。うーん、これがいちばん身に応えた。

 痛みがない僕をみて、連れ合いが「おかしいなー」と、何故か残念がっている。「夕食は食べられないので準備しなかったのに」などと、どうも痛んで欲しい様子だ。
 しかしである。二週間後には彼女の番がやってくる。難敵だそうで、ずいぶん脅されている。というわけで、今度は、ぼくが楽しみにする番だ。

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福岡Y家家庭法座~身で聴く~

  福岡Y家家庭法座。

 初日は事務所での法座のあと、夜は「あり田」での懇親会。2日目は、自宅に移り、午前中はY先生のご法話。これは我が身を知る、それには鏡が必要で、仏さまに照らされた我が身の姿を、十悪、五逆、謗法罪として、ここを具体的に詳しく述べてくださったが、具体例が多くて、分かりやすいお話であった。午後からは、ぼくが1席法話をした。

 ぼくのテーマは、親鸞聖人が示された「身」を中心にした。もともとは40年ほど前にお聞かせに預かっているテーマである。
 最近読んだ精神科医の新書で、「頭」(いわば社会や教育で後天的に造られた認知)・「心」+「からだ」(本来持っている自己)が、対立したり、離反したり、「頭」による「心」「からだ」を抑え込むことで生じる、さまざまな症状に触れておられる。その先生が指摘する「心」+「からだ」こそが、「身」と言われるものだと思ったのだ。

 ところが最近の聴聞は、頭主体になっている。聞くということが、理論的に理解することのように誤解されている。だから、すぐに「根拠は?」などと尋ねて、理論武装していこうとする。
 もしくは、信仰は心の問題だと捉えるのも、一般的だ。お寺でのご法話の後で、「心が洗われた」とか、「心を入れ替えて」とか発言される方もたまにある。煩悩にしても、単に「心の問題」程度に思われている。そうなると信心すら、文字通り信じる心で、心の有りよう程度ですまされる。

 しかし、親鸞さまは「煩悩具足の身」とか「宿業の身」(さるべき業縁催さばいかなる振る舞いもすべき身)など表現されている。間違っても、煩悩具足の心とは言われていない。この煩悩にしても、歓喜にしても、「身」(からだ)と「心」に分けて味わわれ、そのような「わが身」であるという使われ方が多いのである。

 つまり聴聞は、頭で理解するのでも、単なる心の持ちようでもない。「わが身」のところで、その身を聞かせていただくのである。

 それで、聖人が「身」と使われている文章を抜き出して、大きく3分類してご法話した。主に「和讃」「一念多念証文」「唯信鈔文意」から窺った。実は「歎異抄」や「御消息」にもたくさん使われているのだが、繁雑になるので、ここではやめた。それでもA4紙に3枚分はたっぷりあった。それほど多いということである。親鸞聖人が「身」の用例をぼくなりに分類して味わっていったが、今は繁雑になるのでまたの機会に。

 このテーマはこれからしばらくじっくりと味わっていきたい。

 

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「同人会ニュース」と「講習会」の勧め

 同人会ニュースを発送した。

 巻頭は、伊藤康善先生の「叫喚念仏」。先生は参加されていないが、昭和36年の5泊6日の華光仏の子供大会の記録テープを聞いての感話。これが面白いだけてなく、伊藤先生のすごさを感じる。「叫喚念仏」の叫喚とは、叫喚地獄のことで、先生の造語。でも、子供大会での子供たちの念仏を言い表すには、いちばんピッタリしている。お楽しみにお待ちください。後は、総会の報告である。

 同封は、2月の法座案内と、2月の講習会の案内状、3月の春の子供大会の案内状。

 ちなみに2月の講習会は、

 2月17日(土)~18日(日)の2日間で、「歎異抄」の第5回目。後序に入る。附記と奥書も含めて、2日間で読む進める。ここは前18章の総括であると共に、真宗安心の領解の核心に迫る箇所である。「信行両座」の諍論や、「親鸞一人がためなりけり」とか、「念仏のみぞまこと」などの馴染みの深い法語も多いので、どうか皆さん、奮ってご参加ください。復習もありますので、今回が初めての方も奮ってどうぞ。

http://keko-kai.la.coocan.jp/event/2018/detail/02/koshukai2018-2.htm

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寒い一日の、盛り沢山の日程

  朝、外は真っ白だ。でも京都市内の積雪は少なかったが、ほんとうに寒い1日だった。日本列島が冷凍庫に入ったようだ。

 事務所は、同人会ニュースの発送作業作業。午前中、豪雪の豊岡からRさんが来館される。2月の講習会と4月の永代経の講師依頼などの相談をする。本業の合間を抜ってのご足労。

 その後、昼一番で福岡のY先生が会計の報告に来館。12月の月次だが、ひどく落ち込むことはないが、相変わらずの低調ぶりに、頭が痛い。

 そのまま「ご本典」の勉強会に進む。「行巻」に入ったが、大学院時代の普賢ゼミでのお聖教の書き込みが役立っている。しかしその大半は忘れている。実のところ、いろいろと分からないことが多くて、自分のために勉強している。
 
 時間一杯で切り上げて、仏教大学四条センターで受講。雪が舞っていたが、自転車で四条烏丸へ。夕方には止むという天気予報を信じた。約1年ぶりに、仏大の松田先生の講義。「ブッダの教えはどう記憶されたのか」とい演題。総花的で、だいだいは理解している内容であったが、釋尊の最初の言葉、仏語のパーリ語訳に関して、岩波文庫の中村元博士の定説ある本を「誤訳」と断定したり、玉城康四郎博士の「法=言葉や分別を離された形なき純粋生命」という有名な解釈を、翻訳は正しいが間違った解釈の例としてあげたり、津田真一氏に至っては「間違った解釈をさらに輪をかけて間違った」例として指摘されたりと、なかなか面白かった。いろいろと感じること多いし。

 講義終わると、やはり四条烏丸にあるcocon烏丸に向かって、京都シネマで映画を1本観る。今週、これで6本目。5日間なので、ぼくにしてもハイペース。
 今日は、トルコ映画『猫が教えてくれたこと』を観る。会館は猫好きな人ばかり。連れ合いも、母も、事務所の皆さんも、大の猫好き。まあ、ぼくは犬よりも猫派ではあるが、皆さんに比べると極めて普通。それでも、この映画は悪くなっかった。過去と現在が交錯するインスンブールというロケーションが最高。ここでは、野良猫以上、飼い猫以下の猫が街に溢れていた。

 帰りは夜7時を過ぎていたが、幸い雪は降っておらず、自転車で正解だった。ただ気温は氷点となり、かなり冷えている。こちら覚悟の上。

 夕食をすませてから、府庁への提出書類を作製する。年に1度、単立法人に課せられるオウム事件以降に増えた仕事だ。日付がかわった頃には完了し、それからプログを綴っている。ほんとうに寒い1日だったが、ずいぶん盛り沢山な1日となった。お休みなさい。

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1月の輪読法座「師業口伝」

1月の華光誌輪読法座は、77-1号の巻頭言を読む。

 Y先生の「師業口伝」である。要旨を述べると、平成二十九年の華光大会では、伊藤康善師の五十回忌と増井悟朗先生の三回忌法要が厳修されたが、ちょうど伊藤先生の生誕120年悟朗先生が華光会館が創建され60年という節目の年に当たっていたことが、一段目に示されている。

 第二段目には、年忌法座で、伊藤先生の法話CDと悟朗先生の「伊藤師を讃える」を拝聴したが、伊藤師は、「仏教の真髄は智慧門である。智慧の念仏を頂いて、後生の世明けをさせてもらう」ことにあると仰せられた。悟朗先生にも、「お慈悲な阿弥陀さまだからと、そこに腰をかけるのは一番危ない」というお示しがある。ところが、大半の真宗者は、浄土真宗は阿弥陀様のお慈悲を仰ぐ慈悲門と理解されて、地獄一定も薄れ、厳しさが抜け落ちていく。しかし、智慧門では僧侶だとか、教学があると自慢しても、ひとりひとりが、厳しく後生の一大事の解決していかないと意味がない。

 そして第三段目には、そのことを親鸞聖人は多くの著書で示してくださっているが、しかし、善知識のお導きがなければ、私は聞き開くことができなかった。それが、伊藤先生、悟朗先生という師業口伝の法脈が、二人のご往生の後も、脈々と受け継がれている。聖教量・比量・現量の三量の大切さを示されたが、中でも、比量の同行学を提唱されている。いま、華光会は高齢化で会員は減少しているが、蓮如上人の「一人なりとも、人の信をとるが一宗の繁昌に候ふ」と申されたことに照らせば、今回の華光大会は、まさとに大繁昌の法要法座だったと結ばれている。

 このように趣旨も分かりやすく、読みやすい内容であった。

 しかし残念ながら、せっかくの輪読法座なのに、内容を理解したり、著者のいちばん伝えたいことを押さえたりしようとする人がない。言葉や一文だけとって、ほとんど自分の持ってきた話題(最近の法座や座談会、身近な問題)を出して、またその話題に触発されて座談会は進んだ。それでは輪読をしている意味はない。皆さんの流れに任せながら、2、3度は本文に引き戻しを計ったが、難しかった。

 たぶん、参加の皆様には、文章を読むという意味を十分に理解されていないのであろう。決して、覚えることでも勉強でもない。しかし、まずは著者の言葉に謙虚に耳を傾けて、理解しなければ意味はない。そのときに、自分の思い込みや意見は入らない。まず何かが書かれているのかを理解していくのである。そして、一番、言いたいこと、つまりテーマを読む解く。今回なら、たとえば華光に流れる智慧門のお示しは、伊藤先生から悟朗先生、そしていま信師へと師業口伝で法脈が受け継がれ、生きて繁昌していることを伝えたかったのではないか。

 今回は、短文で、しかも分かりやすい要旨だったので、内容を押さえ吟味していくチャンスだった。それから自分の話題をすればいい。座談会は自由に進んでいいのだが、せっかく文章を音読した後に、無関係な話題ばかりでは(それ自体は面白く意味はあったが)、空しくなってくるばかり。これは、このところの輪読法座の課題である。

 それもあって、別に「仏書に親しむ会」を始めた。このあたりにも注意して輪読を進めていきたいものである。次回(2月)の予定です。

 ※「仏書に親しむ会」2月7日(水)夜6時50分~9時

 ※「華光誌輪読法座」2月21日(水)昼1時30分~4時30分

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久々の近況報告

  報恩講の直前から、ずいぶん更新が滞っている。

 ブログは、夜の作業だ。遅めの夕食(9時前から始まる)の後だが、晩酌もした後では、邪魔くさくなることも多い。そんな時は、「早寝して、明朝に書こう」と思うのだが、翌朝になれば、他のことを始めて、書いたためしはほぼない。ほぼないのに、毎晩、そう誓うのだがら、記事が溜まって、ますます後戻りが難しくなるのだ。いまは、報恩講前夜の緊急の「ご示談」の話題を途中まで書いて留まっている。今夜も、「もう休んで、明朝に」の先送りモードに入っていた。報恩講、東海支部法座、は京都支部法座と法座が続いて感じることも多かったが、もう過去に遡らずに、今日のところで、言い訳でも書くことにした。

 今年に入って、ずいぶん立て込んでいるのだ。いい意味で、日々充実しているといっていい。もし普段の表現なら、「忙しい」ということになるのだが、忙しいという言葉は、「こころ」が「亡ぶ」ことだと教えて頂いているので、必要がないかぎり、この表現は避けている。第一、ほんとうに忙しいのなら、講演や講義、映画をやめたらいいだけのことだ。それでも法座の前後、寸暇を惜しんで、日々新しい刺激をもらっているのであるから、充実している毎日といっていい。
 「忙しい」と同じように、「最近、雑用が増えた」という表現も避けている。確かに、仕事には重い軽い(1時間で済むものも、何週間もかかるものもある)も、乗らない仕事や楽しい仕事もあるが、しかしどんな小さな仕事であっても、重要な仕事の一部であって、決して「雑用」と軽んじることはできないと思っているのだ。

 それにしても今月は、示談や相談のお申し出が多い。予感があった。例の1月2日の夜に、急な来館があったからだ。その後、報恩講の前夜にも、「報恩講前で忙しいのは、十分、分かっていますが」と、遠方からアボなしの相談者が見えたりもした。その他にも、「一度、お話を聞いてください」とか、法座が終わってから捕まったりと、約束をしていない相談が続く。あとは、「スカイプ相談」を始めたりで、こちらも充実している。

 講演、講義も、ずいぶん聞きにいった。映画も、いろいろと見た。そうそう、歯医者で煩わされているとこだ。週1なのだが、その1回の日は、あとがなかなかしんどい。数日、痛みが続くこともあるが、これはもう数か月付き合わねばならない。

 というのが、いまのところの近況報告。

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報恩講の準備

 Img_5087報恩講の準備が進んでいる。ぼくもお荘厳や法要の準備、細々した事務仕事を行っている。

 布団や食事、おやつや懇親会の準備は、会館の事務局で進めていくが、同人の皆さんの協力がなければ法座は成り立たない。

 京都の有志の皆さんが、10日、11日と、そうじや仏具のおみがきや荘厳の準備をしてくださる。
 報恩講の法座担当者は、当日の進行や役割分担を差配ある。また運営委員を中心に、分級座談会の担当なども決まっていく。当日、参加できない方でも、掃除を手伝ったり、事前準備に関わってくださっているのだ。これまで総数を考えたことはなかったが、事前準備の段階でも数十名、当日はさらに数十名のお世話役がおられるのだからら、お世話の総数は30名以上の方が関わって、ひとつの法座を造られているということになる。

 さらに、そこに講師や法中、分級司会者などが加わるのだから、実に多くの皆さんが関わり、そして支えられてこの法座が開かれているのだ。しかも華光同人に加えて、専門の業者-仏華や朱蝋、お供え、酒屋に、弁当屋に、布団屋などなど-実にさまざまな皆様のお力が加わってくるのである。参加の皆さんにしてもそうだ。たとえば交通機関ひとつとっても、実に多くの方の尽力があればこそ、私がここに参加できるのである。大きな顔して、自分の力でお参りにしたと自惚れていても、実に十重二十重の、おかげさまが重なりあわねば、私はここに座れないということである。

 ところが、京都のお掃除の方も高齢化が進んできた。最近では、お世話を嫌う方もあるし、組織には入りたくないという方も増えている。親切心から基金を出しあってでも専門業者に任せればよいという声もいただく。しかし、仏法を聞く座とは、「経費を負担したから」とか「参加費を出しているから」といった損得の物差しだけで、はかることのできないおかげでの賜物である。何よりも、なんとか仏法を聞いてもらいたい、ご法を伝えたいという篤い情熱が法座を生んできた。そして、自らの聞法の場を、一丸となって作り上げていこうというプロセスこそが、身をかけた大切な聞法にほかならないのである。なんとか、その伝統を次世代へも伝えていきたい。確かに、お金で解決し専門業者に丸投げした方が、きれいでうまくいくこともあるだろう。しかし、それではせっかくの大切な法への熱情が、スルりと抜けていく気がしてならないのだ。もちろん、時代に合わせて、効率よく準備したり、特定の方だけに負担がかからないような工夫も必要だ。しかし、多くの皆さんのお力が結集されてこそ、私がお聞かせに預かる法座が出来上がり、そこにひとりでも多く方が参画し、共に法座を造っていくことがなけれど、華光に集う意味がないようきがするのだ。

 たとえ、一人でも、二人でもいいのだ。共に頑張っていこうという皆様と力を合わせて、この華光の集いを作り上げていきたいのである。
 

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skypeでの相談

 ある会員から、スカイプ(いわば、PCでの画像付き電話、昔は、テレビ電話って夢の世界だったなー)での信仰相談とういか、カウンセリングの依頼を受けた。これまでスカイプ会議などの経験はあるが、カウンセリングを引き受けるのは初めて。しばしば電話での相談や質疑はあるのだが、画像付きは初めてである。確かに生身で出会うわけではないのだがら、ある程度、相手の表情やしぐさもわかる分、電話相談よりもずっとやりやすいと思った。概ね好評だったようで、これからも定期的に継続して行うことになった。

 このやり方は、初めてなのでまだ試行段階だが、もしうまく継続するようなら、今後は、他の皆さんにも広げられるツールになるのかもしれない。楽しみである。
 
 

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『ギフト~僕がきみに残せるもの』と『わすれな草』

Img_5083 今年最初の映画。京都シネマで、海外のドキュメンタリー映画を続けて2本見る。意図して選んだわけではないが、なぜかテーマも似かよっていた。一本は、難病もの。もう一本は、認知もの。共に運動機能や性格、そして人格まで崩れていく中で、家族の絆や有りようが問われる映画だった。

 まずは、アメリカ映画で『ギフト~僕がきみに残せるもの』NFL(アメリカンフットボール)スター選手が、引退後に、難病のALSを発症。ALSの啓発や研究援助のために、アイス・バケツ・チャレンジが世界中で広まったのは記憶に新しいところだ。映画では、病気の判明とほぼ時を同じくして、妻の妊娠が分かる。つまり妻は、看護(介護)と育児のたいへんな両立が始まるのである。最初はまだ見ぬ、その後は成長過程に合わせて子供に向けた父親のビデオメッセージがこの映画の元となり、同時に、知名度を活かし、治療法の研究や患者の地位向上のための運動の中心者となっていく。もちろ、そのために家族との関係が揺らいだり、進行する病気を歎いたり、ケンカしたりする等身大の姿が、克明に記録されていくのである。本人のすごさはもちろん、彼に寄り添いながら子育てをもする妻に、家族や献身的に支える仲間の存在も素晴らしかった。
 それにしても、スボーツマンとして健康そのものだった体が、徐々に、徐々に運動機能が奪われていくプロセスは、まさに残酷である。体の筋肉が動くなくなり、歩くことや立つことも困難になる。排泄も自分でできなくなる場面は象徴的だった。そんな運動障害が進行するだけでなく、口や喉の筋肉が弱り声が出なくなり、食べ物が飲み込めなくもなる。痰も吐き出せず、呼吸する筋肉まで衰える呼吸障害までおこってくる。それでいて、症状が深刻になっても、五感や意識はしっかりしているだ。つまり、意志を示せず、食事も、排泄も、痰すら出せず、息もできなくなり、悪化することはあっても回復のすることがないことが、意識しているというのは、ある意味で苛酷なものだった。しかも発症後の余命は、2~5年といわれる。ただ最新テクノロジーを使っての意思疎通や、気管切開の人口呼吸器(多額の負担と24時間介護が必要)の装着で、延命する可能性が高くなっていて、主人公もこの道を選んでいる。ただ残念ながら、いまだ原因や根本的な治療法も解明されていない難病なのである。

 もうひとつが、ドイツ映画で『わすれな草』こちらは、認知症の母親と、寄り添う年老いた父親に、息子がカメラを向けた作品だ。単なる今を写すだけでなく、若き日からの両親の歩みを振りかえていくのだが、これがなかなかユニークで波瀾に飛んだもので面白かった。妻は、テレビのキャスター、父親は数学の大学教授。同時に、社会運動家の活躍し、また夫婦関係もユニークで、結婚中でも他の異性関係が公認されていたという進歩的な歩みをした二人。しかし、年老いた時に、そんな二人が寄り添いながら、その距離が縮まり、またカメラを通して、二人の理解が深まってく息子の視点が、もの静かだが、ちょっと感動的。

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廿日市市での広島支部法座

 1年1度の廿日市市での広島支部法座。今日は成人式で、晴れ着姿の新成人に出会た。人数は多くはなかったが、初参加や2回目の方もあって、ちょっと新鮮な顔ぶれ。

 新年、最初の支部法座。それで、会館での修正会のように、正信念仏偈をおあげし、皆さんと一緒に、「現世利益和讃」をいただいた。広島では久しぶりのことだが、皆さんには新鮮だったようだ。初めて「現世利益和讃」をあげさせていただきました、という方もあった。

 法話も、「門徒物知らず」というテーマで。昔から、広島の本願寺派のご門徒は、安芸門徒と呼ばれ、筋金入りの念仏者も多い。いまだにこの地域では、お葬式でも位牌は使われないし、習俗や神信仰、お墓についても、きっぱりと他力念仏の立場を貫いておられる方が多い地だ。それでも、今回、初めてこの言葉を聞いたという方もけっこうあった。また、「一文不通」の意味だと思っておられた方もあったよで、ちょっといつもの法話とは違う角度からの法話となった。

 座談会は、まずは一口ずつの感想を回したが、法話のことだけでなく、自分を開いた率直な発言が多かった。そのことが、受容的で、温かな空気を生んで、なかなかいい雰囲気で、座談会が進んだのではないかと思った。

 どうぞ、今年もよろしくお願いします。

 来月は、※次回は、2月3日(土)昼1時~5時
 広島駅(マツダスタジアムすぐの)荒神集会所が会場。

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『観無量寿経』始まります

 昔(聖典講座が婦人講座と呼ばれいていた40年以上前)から、1月と8月は聖典講座はお休みだ。でも、今年は1月に聖典講座を開催した。報恩講前で、お世話役の方も初参加くださり、いつもとは違う顔ぶれが集まってくださった。

 区切りよく今日から『観無量寿経』へ。おさらいの意味で浄土三部経の概観から入った。これが三度目なので、今回は『観経』を中心にした構成にして、最後に本山から発行されている『観経』王舎城の悲劇のDVDを見てもらった。

 浄土真宗では、親鸞聖人の影響で、『観経』といえば序文の「王舎城の悲劇」を中心に味わっているが、正宗分の中心となる「定善・散善」は、十八願の他力念仏へ誘引するための方便、流通分の他力念仏の付属こそが真実であるという立場があって、どうも三部経の中でも、一番馴染みのない一段低いお経と理解されがちだ。さらに、善導様によって決定版が出されたことで、その見方が固定化されてしまっているという問題点もある。

 そんなこともあってか、今回の質疑でも、どんな態度(姿勢)で、これから講義に臨めばよいか?とか、DVDを見ても韋提希夫人には共感できでずに、ただ眺めて終わってしまったが、どうすればよいのかというような声がでた。

 それを聞きながら、別に無理に共感する必要もなければ、受験勉強ではないのだから、こう理解しなければならないという囚われは、むしろ邪魔になるかもしれない。しかも、皆さん、初めて読ませてもらうのだろうから、別に構えることなく、虚心坦懐、己を空しくして読ませてもらえばいいのである。そして、善導様や親鸞様のご指南を仰いでいけばいいのである。最初から、こう感じなければならないとか、こう思わなければならないというのは、あまりにも不自由だ。むしろ、初めて読む世界を、わくわくと楽しんだり、知らないことには、素直に「ヘエー」と驚いていけばいいのではないだろうか。

 ※次回は、2月4日(日)昼1時30分~5時

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まもなく報恩講さまです

 もしそれ知識の教えなくば 永久の闇路に迷いぬらん

 親鸞聖人の報恩講さまが、近づいて参りました。親鸞聖人の御徳を讃え、そのご化導に御報謝に申し、共に仏徳讃嘆いたします。法要がございます。ご法話は4座で、限られた時間となりますが、分級(ぶんきゅう)座談会では、共にこころを開き、仏法を語り合いましょう。 

1月13日(土)昼座(13時30分)法要・法話・座談会 夜座(19時)御俗抄・法話、座談会
1月14日(日)朝座(9時)勤行・法話・座談会 昼座(13時30分)法要・法話・全体会

 宿泊や食事の申込みの〆切日ですが、8日までならまだ大丈夫です。奮ってご参加ください。なお、食事などが不要の方も、事前にお申し込みいただけると有り難いです。
皆さんのご参詣をお待ちしております。

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青空の本願寺

Img_5073 4日朝、予約していた初めての三菱京都病院に向かう。何度も通ったことのある道だったが、一筋入ったところに、病院があるのはまっくた知らなかった。新年の頭ということで逆にImg_5076空いていた。診察も淡々とすんで、今日は様子を見ただけ。月末から、2回に分けて親不知を抜くことになった。

 予想外に診察が早く終わって、その足Img_5080で、西本願寺へ。週末の聖典講座で使用する「観無量寿経」のDVDを購入する。「王舎城の悲劇」のスライドはあるが、「観Img_5078経」に「涅槃経」を加えたアジャ王の物語が主なので、それは別の機会に見ることにして、総花的な映像が欲しかった。

 来月には、このブックセンターの3階で、Img_5082_2結婚式に出る。

 国宝に指定された阿弥陀堂、御影堂にもお参りをする。 風は冷たいが、青空が広がっている。日が差すところは気持ちがいい。ところが、晴天のこの時間だけ。2時間後、お昼をすませて、京都シネマに自転車で出かけたら、冷たい雨が、みぞれになって、すごく冷え込んできた。

 今年の冬は、どうも寒い。

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来客? 珍客?

 正月2日目。来客もなくゆっくり1日を過ごした。風邪気味なので、ちょうどいい。

3階で、名古屋からの洋風おせちを、姉一家も一緒に食べていたら、電話がなる。タクシーの運転手、「すぐ近くまで来ているが、華光会館が分からない。教えてほしい」と。正月の来客は珍しいことではないが、夜8時を過ぎてからの来客は珍しい。しかも、場所が分からないというのは、お参りされたことのない方か、高齢者の可能性もあるが、それなら夜の訪問はないだろう。母が、「アメリカのお同行さんかな」と言った。突然、来られることはこれまでも何度かあったのだ。ところが、「すぐ近くまで来ている」と言われわりに、10分たっても現れない。「華光会館を目印に路地の方ではないか」とも思ったが、それならここに電話はかけて来ないだろう。 

そのうち、チャイムがなる。1階に降りて、姿をみて、「ああ、なるほど、あなたでしたか」と、一気に合点がいった。初来館ではないが、場所が思い出せず、十条駅からタクシーに乗ったというである。おいしいコーヒーがあったので届けてくださった。

遠くからせっかくお出でくださったのだ。お酒を飲んでいたが、道場で勤行をした。聖典を見ながら、「漢字は難しいですね」と仰る。それから、しばらく談笑。12月の東海支部法座での法話について質問された。「あの時されていた、頭に「こ」のつく話が聞きたい」と。いーや、これは困った。まったくわからない。いろいろと尋ねるが、要領を得ない。「ああ、もしかして五劫のことかな」というと、「私は囲碁をやっているが、劫というのがある」という話題に変わって、もう法話のことはなくなって四方山話が続く。たまにチラチラと本音に近い言葉も出るがすぐにまた流れていくが、けっこう面白い話が多くて、興味深く聞かせていただいた。

最後は、「私も忙しいので失礼します」と。近くのスーバーに寄ってから、三重まで帰るといわれた。お酒の話題がでたので、「次回は、おいしいお酒をもってきます」と約束してくださって、お別れした。気をつけてお帰りください。

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祇園

Img_5063 修正会を終えて、家族で外食。
  京都の繁華街は、ずいぶん賑わっている。四条の南座前の交差点は黒山の人盛り。祇園の花見小路も、八坂神社に近くこともあっImg_5062てか大勢の人が歩いていた。忠臣蔵で有名な「一力」を通って一筋目。

Img_5041Img_5045 たまたま年末に情報誌で見つけた初めてのお店。お茶屋を改造したのだろうか。

 これがよかった。京都の正月Img_5047料理のイメージ。お雑煮も、白味噌の丸餅、金時人参に、蕪。八寸は、お節料理のちょこちょこした盛り合わせ。クワエなど京野菜が使われていた。

Img_5051 大人ばかり6名と、去年より人数が減って寂しくなったが、お酒もおいしくて、元旦から御馳走になりました。

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修正会~門徒物知らず~

 風は少し強く肌寒いが、穏やかな元日を迎えた。

 修正会にお参りの皆様へのご挨拶に」ついて、連れ合いが尋ねてきた。「明けましておめでとうございます」とは言っちゃいけないのか?と。それを尋ねるには理由がある。悟朗先生が、「別に正月はめでたくない。ほんとうに明けましてというのは、迷いの闇が破れた時だ。その時にこそ、初めておめでとうなのだ」という法話のエピソードを、どこかで耳に挟んでいるからだ。といって、別に目くじらを立てる必要もない。そのこころを理解したものならば、堂々と言えばいいのである。

Img_5020 ということで、新春の法話のテーマは「門徒物知らず」に。もうひとつ理由があっって、昨年末のカウンセリングの会合で、「実家は浄土真宗ですが、門徒もの知らずなので、真宗の教えは知りません」とご挨拶される方があったのだ。残念ながら、本来の「門徒物知らず」の意味ではない。これはしばしばよく間違われることなので、改めて「門徒物知らず」の意味を申し上げることにした。

 お参りは例年より多めだ。初参加の方も多かった。ご夫婦で、ものImg_5029すごく久しぶりにお参りくださる方もあって、うれかしった。また、毎年、この修正会だけお参りくださる方もあるのだ。

 例年のように、一同で、「正信念仏偈」をあげ、「現世利益和讃」を頂く。ぼくは、年末から風邪気味で、声の調子が悪かったが、なんと皆様に助けていただいて、勤行を勤めることができた。

Img_5033  法話は、「門徒物知らず」を中心に、年末年始の所感と、今年の目標を話した。結論からいうと、阿弥陀仏に帰依し、信心一つでお救いに預かるのであるから、他の神仏を頼まず、初詣なども行わず、おみくじや御札などの占い、まじないを否定し、葬儀でも物忌みをせず、いわば世間一般の習俗に馴染まないものを(他派からの批判として)「門徒物知らず」と揶揄されたものである。しかし、それは決して恥ずかしものではない。むしろ、そこを貫きたいものだ。

 その意味で、そんな浄土真宗の念仏者は、世間では少数派だろう。加えて、華光に集うものは、その真宗の中でも少数派に属する。つまり、マイノリティーを堂々と生きることこそ、無碍の一道である。決して、多数派に流されたり、媚たりするのでも、また原理主義的に孤立したり、理解者だけで群れたりするのでもなく、どうその一道を歩みのか。ひとりひとりのご信心のありようが尋ねられる大切な要点と思うのだが、如何? 具体的にお話したが、テーマをもう少し練って、温めていきたいと思っている。

 どうか、今年もよろしくお願いします。

 

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迎春

 恭 賀 新 年

Img_5011_2 旧年中は、たいへんお世話になりました。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 さて、新年を迎え、また新たな気持ちでスタートを切りたいです。

 何かと遅れがちなのに、まとまって1週間分をアップすることもある「かりもん」ブログですが、本年も、どうぞよろしくお願いします。
 「『迎』はむかふるといふ、まつといふ、他力をあらはすこころなり」 (唯信抄文意)

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