1月の華光誌輪読法座は、77-1号の巻頭言を読む。
Y先生の「師業口伝」である。要旨を述べると、平成二十九年の華光大会では、伊藤康善師の五十回忌と増井悟朗先生の三回忌法要が厳修されたが、ちょうど伊藤先生の生誕120年悟朗先生が華光会館が創建され60年という節目の年に当たっていたことが、一段目に示されている。
第二段目には、年忌法座で、伊藤先生の法話CDと悟朗先生の「伊藤師を讃える」を拝聴したが、伊藤師は、「仏教の真髄は智慧門である。智慧の念仏を頂いて、後生の世明けをさせてもらう」ことにあると仰せられた。悟朗先生にも、「お慈悲な阿弥陀さまだからと、そこに腰をかけるのは一番危ない」というお示しがある。ところが、大半の真宗者は、浄土真宗は阿弥陀様のお慈悲を仰ぐ慈悲門と理解されて、地獄一定も薄れ、厳しさが抜け落ちていく。しかし、智慧門では僧侶だとか、教学があると自慢しても、ひとりひとりが、厳しく後生の一大事の解決していかないと意味がない。
そして第三段目には、そのことを親鸞聖人は多くの著書で示してくださっているが、しかし、善知識のお導きがなければ、私は聞き開くことができなかった。それが、伊藤先生、悟朗先生という師業口伝の法脈が、二人のご往生の後も、脈々と受け継がれている。聖教量・比量・現量の三量の大切さを示されたが、中でも、比量の同行学を提唱されている。いま、華光会は高齢化で会員は減少しているが、蓮如上人の「一人なりとも、人の信をとるが一宗の繁昌に候ふ」と申されたことに照らせば、今回の華光大会は、まさとに大繁昌の法要法座だったと結ばれている。
このように趣旨も分かりやすく、読みやすい内容であった。
しかし残念ながら、せっかくの輪読法座なのに、内容を理解したり、著者のいちばん伝えたいことを押さえたりしようとする人がない。言葉や一文だけとって、ほとんど自分の持ってきた話題(最近の法座や座談会、身近な問題)を出して、またその話題に触発されて座談会は進んだ。それでは輪読をしている意味はない。皆さんの流れに任せながら、2、3度は本文に引き戻しを計ったが、難しかった。
たぶん、参加の皆様には、文章を読むという意味を十分に理解されていないのであろう。決して、覚えることでも勉強でもない。しかし、まずは著者の言葉に謙虚に耳を傾けて、理解しなければ意味はない。そのときに、自分の思い込みや意見は入らない。まず何かが書かれているのかを理解していくのである。そして、一番、言いたいこと、つまりテーマを読む解く。今回なら、たとえば華光に流れる智慧門のお示しは、伊藤先生から悟朗先生、そしていま信師へと師業口伝で法脈が受け継がれ、生きて繁昌していることを伝えたかったのではないか。
今回は、短文で、しかも分かりやすい要旨だったので、内容を押さえ吟味していくチャンスだった。それから自分の話題をすればいい。座談会は自由に進んでいいのだが、せっかく文章を音読した後に、無関係な話題ばかりでは(それ自体は面白く意味はあったが)、空しくなってくるばかり。これは、このところの輪読法座の課題である。
それもあって、別に「仏書に親しむ会」を始めた。このあたりにも注意して輪読を進めていきたいものである。次回(2月)の予定です。
※「仏書に親しむ会」2月7日(水)夜6時50分~9時
※「華光誌輪読法座」2月21日(水)昼1時30分~4時30分