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2017年12月の17件の記事

今年みなみ会館で見た28本(後編)15~28

15『ニーゼと光のアトリエ』は、60年代、ブラジルの精神病院をアートで改革しようとした女医の奮闘を描く。当時、人権(いや命)無視の治療と態度の中で、悪しき因習を破るべく、一貫した人間尊重の態度でアート療法を取り入れよう苦闘する。まるでドキュメタリーのような面白さがあった。この流れが、現代では、10番の映画のような施設を生んでいったのだろう。

16『人間爆弾・桜花』(*) -特攻を命じた兵士の遺言ー。特攻作戦の最初の志願者で、その後、出撃者を選ぶことになった男の苦悩。愚かな作戦。

17『知事抹殺の真実』(*)http://eisaku-movie.jp/ 元福島県知事の佐藤栄佐久氏の冤罪事件をおったドキュメンタリー。反原発(実際は安全性に慎重だったたけ)のレッテルをと貼られた知事が、まったく身の覚えない冤罪事件に巻き込まれ、「収賄額0円」で有罪に。国策捜査、検察の横暴を正面から描く。これは感動作。

18『海底47M』。低予算のアメリカ映画。パニックムービーだが、なかなか設定がうまかった。ラストも解釈分かれるところが面白い。

19『ウオーナーの謎のリスト』(*) 京都の空襲から守ってのはだれか。単なる俗説なのか。
https://www.cinemabox.jp/warner-list/ 

20『米軍が最も恐れた男』~その名は、カメジロー(*) これは傑作。見終わったら、会場のあちちこちらから拍手。沖縄の民衆派のカリスマ。瀬長亀次郎のかっこよすぎる生涯。

21『抗い』~記録作家・林えいだい~(*) 奇しくも今年亡くなった反骨のジャーナリスト林えいだい氏の生きざまを通して、戦後の日本の葬られた闇を描く。

22『裁き』は、まるでドキュメンターのようなインド映画。根強いカースト差別と、国家権力の横暴を描いた秀作。

23『ラオス・龍の奇跡』は、日本とラオス合作。ラオス映画が日本上映は初だという。ただ内容はいま一つで、展開は、かなりのご都合主義で終わってしまう。

24『草原に黄色い花を見つける』。こちらはベトナム映画。幼なじみの子供たらの視点での、淡く切ない恋を描く、ベトナム版の青春映画。

25『旅する写真家 レイモン・ドゥパルドンの愛したフランス』(*) タイトルどおり、フランスの写真家レイモン・ドゥパルドの撮影したフランス。

26『立ち去った女』今年、200本目に観たフィリピン映画。これは絶対に名作だ。モノクロ映像が深い深い。しかし退屈でもある。ぼくには4時間は長すぎだ。それもいいのだろう。

27『エンドレス・ポエトリーチリを舞台にした巨匠ホドロフスキー監督の自伝風映画。幻想的な映像は、まさに映画芸術。
http://www.uplink.co.jp/endless/

28『ポバティー・インク ~あなたの寄付の不都合な真実~』 実は1月2日に見ていたのリストに漏れていた。これはよかった。無邪気の善意ほど恐ろしいものはない。貧困や差別を助長するのだ。ブログに記事も書いていた。
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-8e23.html

 こうしてみると、あまり見ていないと思っていたが、この映画館で、28本見ている。一ケ月にすると、2、5本くらいは見ている計算だ。傾向としては、アジア映画をよく見ている。中国、インド、韓国、北朝鮮、そしてベトナム、ラオスとパキスンカの映画は、これまで日本で公開されたことのないもの。昨年は、初めてカンボジア映画もみた。日本製作でも、映画の舞台が、ネパールやラオスのものもある。

  あとは、ドキュメタリーの秀作が多かったこともひとつ。これほぼくの好みだろうが、ドキュメンター映画が半数を占めていた。中でも、傑作といってよかったのが、20『米軍が最も恐れた男』~その名は、カメジロー、17『知事抹殺の真実』。
 あと、ブラジル映画の15『ニーゼと光のアトリエ』と、インド映画の22『裁き』も、ドキュメンタータッチでよかった。フィリピン映画の26『立ち去った女』も、2017年のベスト3に入ろだろう。若い国で、混雑とした社会状況、善悪があいまいである国情が、映画を面白くしているのだろう。

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今年みなみ会館で見た28本(前編)1~14

 3月一杯で終了する京都みなみ会館で、今年1年、どんな映画を観たかをリストアップしてみた。(*)はドキュメンタリー映画。

1『将軍様、あなたのために映画を撮ります』(*)は、北朝鮮が舞台に、亡命した韓国籍の映画監督と女優の物語。監督の弁明が保身的で、そのままは聞けなかった。

2『人魚姫』は、B級映画の典型でそこが面白い。中国・香港映画で摩訶不思議なフアンタジー。

3『クワイ河に虹をかけた男』(*) 「戦場に架ける橋」で名高いビルマを舞台にし、戦争責任を担った一人の日本人の真摯な生き方を追いかけている。

4『太陽の下で』~真実の北朝鮮~(*) 映像を通して、真実の北朝鮮(平壤)を舞台にしたドキュメンタリーで話題に。そのまま撮ることで、造られた不自然さが浮き彫りになる、ある意味で、映像の持つ力、恐ろしさがわかる。さ。

5『ブラインド・マッセージ』。中国・香港映画。タイトルどおり、盲目のマッサージ師たちの愛憎渦巻く人間ドラマ。よくありがちな、お涙頂戴の障がい者のものとは一線を隠していた。

6『ニュートン・ナイト』は、マシュー・マコノヒー主演(メジャーな旬の役者)のアメリカ映画だが、中味は渋い。

7『バンコクナイト』は、タイ・ラオスが舞台の日本映画。あるところでは評判にもなったのだが、正直、ぼくには退屈な一本だった。

8『kapiw(カピウ)とapappo(アパッボ)』(*)は、現代のアイヌの姉妹の音楽活動を追いかけたドキュメンタリー。現在の日本でのアイヌのアイディティテーとは何かが、シビアに映し出されている。

9『おとなの事情』は、イタリアで大ヒット。友人たち(夫婦連れ)の会食場面での、ちょっとしたお遊び-連れ合いのスマホを信頼し見るかどうか-から興る、夫婦間の秘密暴露へと展開して、かなりの苦々しさと、面白みが混じる秀作。

10『幸福は日々の中に』(*)鹿児島の知的障がい者施設でのアート活動を紹介したもので、面白かった。

11『娘よ』は、日本初公開のパキスタン映画。パキスタンの荒々しい大自然と、古い因習の残る部族社会での女性差別の現実を扱った実話。

12『スペシャリスト』~自覚的なき殺戮者~(*)は、イスラエルなど製作のナチスのアイヒルマン裁判を描いた傑作。この関連は、ここ数年造られたいる。

13『世界でいちばん美しい村』(*)は、ネパール大地震の後の寒村の様子を描いた日本製のドキュメンタリー。

14『世界にひとつの金メダル』は、フランス映画で馬術の障害競技で、オリンピックを目指した父と子の愛憎を描く実話。これはまあまあといところ。日本人には馬術競技はなじみがないという点もるあが、もう一押し足らない感じがした。

(続く)

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奈良と京都での『地獄・極楽』展

Img_3199 細見美術館の「末法展」のことを書いたら、かなり古いが夏に見た奈良博で源信展と、秋に見た龍谷ミュジーアムでの『地獄絵ワンImg_3192ダーランド』展にも触れて起きたくなった。昨年は源信(恵信)僧都の千回忌で、今年は、各地で源信僧都ゆかりの展覧会が開かれていた。そのうち、二つの展覧会を鑑賞したのだ。

Img_3203 夏には、奈良国立博物館で『源信展』~地獄極楽へのいざない~の開催されていた。

これはとても見事なもImg_3240で、感動した。単なる、地獄極楽の図だけでなく、源信僧都の思想に迫る内容。その著作もたくさんImg_3228展示されていたし、その思想の背景にあるもの、また同時代の学僧たちの書籍の展示など、体系的な展示がとてもよくて、久しぶりに興奮というか、感動した展覧会だった。

 ただ売店で売っていた地獄Tシャツの購入を迷ったが、やっぱりやめた。

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Img_3796 秋は、京都の龍谷ミュジーアムで『地獄絵ワンダーランド』展が開催された。

 招待券もあり、連れ合いと母と一緒に出かけた。この地獄絵展は、東京でも行われているが、地獄のかなり人気のテーマのようImg_3790で、平日でも盛況だ。どこかで恐いもの見たさの気持ちがあるのだろう。ただ国立博物館と比較しては申し訳ないが、源信展に比べると、量、質ともにかなり落ちる。国宝や重文などの一級品の展示さ比べると、如何せん二軍(いや三軍か)の試合である。もちろん、国宝の一級品ばかりで世の中は出来ていない。美術品として二流、三流であったとしても、どこか味があっりり、面白かったり、キッImg_3794チュさが愛らしかったりする。庶民に生きた地獄・極楽の世界を味わうという意味では面白かった。

 ビデオ上映もあって、女流講談師による地獄めぐりが語られていた。これがなかなか面白い作りで、飽きずに見ることができた。これを最後にどのようにまとめるのかと興味津々でいたら、「地獄も極楽も、いまの心の問題だ」というオチで終わり、監修は龍谷ミュジーアムだとクレジットさImg_3797れた。あれれ、いまの己の心に、地獄、極楽があるのだとなると、下手すれば唯心の浄土になっちゃうよ。要は、地獄なんか心の問題だと言いたいのだとすると、極楽だって同じことになる。せっかくの私を指し示してくださった仏説まことが死んでしまう。
 結局、展示の意図も含めて、この企画を浄土真宗系の龍谷大学のミュジーアムで行う明確な意味が感じられなかったのが、もっとも残念なところ。
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華光誌新年号の発送

 華光誌を発送した。助っ人としてAさんとMさんが加わってくださり、ぼくと連れ合いと、Tさんの5名での作業した。終了後、お茶を飲みながらの懇談が楽しみなのだが、今日は、夕方に歯医者の予約があって、そちらは不参加となった。

 皆様のお手許に年内には届くだろうが、年末の宅配便はたいへん混雑している。もしも未着の時は、ご遠慮なくお知らせください。

 表紙は紫色。新年号なので、来年度の年間行事表と、同人の方には年賀交換が付録している。

 体験記は1編だけだが、随想が面白いものがある。誌上法話は、ちょっと難しいだろうが、熟読いただけると期待している。

 どうぞ、新年のお楽しみに。

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第4回「念仏と黙想と語らいの集い」

1回キリで終わらずに、第4回までやってきた。

今年も尊い集いとなった。冒頭、少し詳しく注意や説明を行う。あとは、一同が車座に座り、称名念仏する。ああ、この感覚、忘れていたなーと思った。1年前のことたが、このお念仏の響きは新鮮だ。地鳴りというか、波が押し寄せるような念仏の声が押し寄せ、響いてくる。5分、10分など、大声で集中するとアッという間である。

静かな時間を持つ。ここはもう雑念、妄念ばかり。それがまたいい。冷静にクールダウンできるのだ。

そして分かち合う。これもさまざまである。自分のいまのところで語る方もあれば、知的な話題や過去を語る人もいる。今回は、参加者同志のところで、関わりも活発だった。いろいろと気付かせてもらったり、学ばせてもらった気がする。特に、最後のセッションは学ぶところが多く、尊かった。

今回は、このあと、お聖教を一文をそれぞれいただいた。これがまたよかった気がする。解釈で終わることもあるが、身に寄せて味わえたなら、それはそれで有り難い。

ただ、それだけに1回1回のセッションに時間がかかって、称名念仏の機会が少なくなったのは残念だったが、それはそれで内容が充実していたのではないだろう。

お念仏は決して、醉わすものではない。目覚めとはよくいったもので、己の無漸無愧の姿を知らせていくばかりだ。しかしそれだけではない。同時に法蔵菩薩のご苦労を思い知らせれる。皆さんのコメントの中から、それを教えてもいただいた。メンバーの中には、力のある同行もおられて、的確な関わりをしていただけた。その意味でも、尊い集いになってきている。

未経験の方も、ぜひ、ご参加ください。

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細見美術館~末法展~

Img_4931_2 ずっと気にはなっていたが、初めて岡崎になる細見美術館に行く。このあたりは、京都の文化ゾーンでホールや会館、そして大小さまざまな美術館が点在している。大きなところでは、国立近代美術館。その対面に、京都市美術館がある。その周りには、野村美術館や泉屋博古館、そしてこの細見美術館と、小振りだが、センスのいい私立美術館があるのも魅力的だ。特に今年は、四条大橋にある南座が耐震工事中で、美術館のお隣のロームシアターで顔見世興行が行われているので、一層賑やかImg_4941だった。

 細見美術館のテーマは「末法展」だった。テーマに魅力を感じていた。が、美術館としても強い意図もった企画で、今日(端的にいうならば、国宝展のような大企画、国宝○○点とか、新発見といったセンセンショナルなマスコミや美術館が造った)の美術展示のあり方に、小さなImg_4938抵抗をおこなう企画で、あくまでも一人称で語られる、小さな美術館だから出来る企画だった。

 ただし、テーマはかならずしも仏教的な意味での末法ということだけに特化されたわけではないが、今日の美術界の有り様が「末法的である」という拡大解釈で行われていた。展示所も小さく展示品も60点ほど。しかし、しいと思える作品がたくさんあったのがよかった。美Img_4946術館も、そして展示物も、品があるのだ。中でも、興福寺伝来で明治の元勲、井上馨が所蔵していたという「弥勒如来立像」は、気品もあり、とても美しかった。また末法とは関係ないが、長谷川等伯の屏風絵、与謝野蕪村、円山応挙が、小さなImg_4947作品だが一室になった。応挙の「驟雨江村図」にこころ引かれた。

 ただ、三階(実際は地上1階で地下におりるのだが)二階、一階へと階段を歩くのが母には難しく、特別にエレベーターを使わせてもらった。普段は職務用なので、職員がいちいち付いてご案内してくださった。その親切な対応も有り難かった。

 詳しくは、こちらで。(寺の写真は、向かいにある日蓮宗の寺院)

http://www.emuseum.or.jp/exhibition/ex056/index.html

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『選擇本願念仏集』~三心篇~

 仏教大学の四条センターは一般向けの講座だが、聖教の講読もある。
 今年は、凝念大徳の『淨土法門源流章』を原文に当たっているが、専門的な内容もあって楽しみに参加している。

 もう一つが『選擇本願念仏集』の講読だ。これは途中からの参加となったのは残念だ。じっくりというより、かなり早足なのでもう少し掘り下げて聞きたいが、致し方はない。10、11、12月の三回で、三心篇を拝読した。「至誠心」「深心」「回向発願心」をそれぞれ3回で読む。かなりの分量があり、また二種深信や二河譬などの重要な箇所もあって、三回で読むにはあまりにも勿体ないが、それでも基礎的な押さえはできた。

 この三心は、『観経』に「浄土往生を願うものは、三種の心を発したならば即便ち往生する。この三心を具すれば必ず往生する」と述べられている。がしかし、ただ「至誠心」「深心」「回向発願心」と三心を列挙されるだけで、具体的にどんな心なのか、それをどう発こすのかは、まったく触れておられない。にもかかわらず、さすがは善導さまだ。字訓などからそれぞれのお心深く、また詳細に教えてくださったのである。

 それを法然さまはどう受け取られたのか。そのいちいちにはいまは触れられないが、法然さまは、大半を『観経四帖疏』と『往生礼讃』からの引文されている。ただ親鸞聖人のような独自の読み替えはほとんどない。それでも法然さまが引用される箇所、省かれた箇所、別にところで取り上げておられる箇所など微妙な違いがあって面白かった。

 最後に、私釋段で、三心は「もし一心をも少(か)けぬればすなわち生じることを得ず」との「礼讃」を『選擇集』ではそのまま受けておられる。が、他のところでは、一心に信じ念仏申したならば、三心は自然に具足するというようにも述べておられるのも、法然さまの展開といっていいのだろう。ご文を引いておこう。お味わいください。

 南無阿弥陀仏について、「阿弥陀ほとけ、われを助けたまへということばと心得て、心にはあみだほとけたすけたまへとおもひて、口には南無阿弥陀仏と唱うるを、三心具足の名号と申すなり」 (つねに仰せられける御詞)

「三心・四修と申すことの候は、みな決定して、南無阿弥陀仏にて往生するぞとおもううちにこもり候なり」 (一枚起請文)

「一向念仏して、うたがうおもひなく往生せんとおもうふは行具の三心也。五念・四修も一向に信ずるものは、自然に具する也」 (東大寺十問答)

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充実した月例会

 今月の月例会には、東海大学名誉教授で、老年科医師でもある奈倉先生がゲストとして参加してくださった。

 仏教大学の四条センターでの「ビハーラ実践と仏教カウンセリング」を受講したことから、先生とのご縁が生まれ、お誘いしたら、快くご出席下さったのだ。その顛末は、ここでも触れている。

 ご自身の歩みとして、京大病院で老年科を立ち上げられたころのエピソード。大学病院の医師でありながら、カウンセラーとしての学びを志された経緯、さらに浄土宗の僧侶としての僧籍をとられた時の気持ち、そして、お念仏との出会いは、先生の回心体験は、たいへんありがたく深い内容で、正直驚いた。

 しかも一方的にお話されるのではなく、皆さんの声を聞きながら、その時の適切な話題を提供されるスタイルで、介護と看護の違い、そこで援助的人間関係を結びとはどういことか。いかに適切な環境作りをするかなど興味深い話が続いた。

 大半の方は、先生とは初対面だったが、皆さんとても喜ばれていた。刺激を受け、興奮気味の様子だった。ここは研究会といっても、単なる知的学習に止まらず、温かい雰囲気の中で、次々と皆さんの声が続いていい集まりとなった。

 その勢いで、来年度の真宗カウンセリング研究会の半日ワークショップ(講演会)の講師をお願いした。週末(たぶんぼくの都合で土曜日になるだろう)に、日程調整をして、ぜひとも実現したい。

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歯医者から西山別院へ

Img_4978今年も残すところわずかになった。
ぼく個人のところでも、さまざまなことがあった。そんな今年1年を漢字で顕す、わが家の一字は「歯」ということなるだろう。信頼していた歯医者Img_4979が、高齢になって4月で廃業されたのだが、それで苦しめられている。それは来年にも持ち越されて、二人とも年明けには親不知を抜かねばImg_4975ならない。わが家だけでなく、事務所のTさんも同じことで苦しんでいるようだ。

今日も歯科の予約で、ご縁があって桂(西京区)に通っている。実Img_4985は、以前の歯医者も上桂にあった。元連れ合いの紹介だ。そこが廃業になって、ブラジルにいる彼女も困っていると、先日、別の歯科を紹介してくれたImg_4986が、それもやはり桂にあって,実はその前を通って今の歯医者に通っているのが、ちょっと面白い。歯医者は、西山別院前を左折し、2~3分というとこImg_4980ろにある。

今日は、いつもより早く診察が終わった。珍しく痛くなく元気もある。いつもはグッタリしていることが多いが、西山別院にお参りしていくことにした。

ここは本派の僧侶なら、誰もが特別な感慨のある場所だ。得度習礼も教師教習も、ここで行われているからだ。つまり、僧侶の第一歩がここから始まるのImg_4984だ。ぼくが得度してから35年以上経過した。教師教習は大学院時代だがそれでも30年はたった。この地にたってもどこでどうだったのかは、もう覚えていない。それでも懐かしさと同時Img_4987に、初心に戻るような気もする。

本堂、こんな狭かったのかなと。とにかく足が痛かった。そして寒かった(その年は記録的に寒い冬だった)。暖房は、まだ火鉢。叱られこと、怒鳴られたこと、失敗したこともよく覚えている。

ここは、本願寺の第三世、覚如上人の墓所でもある。早朝、、「かくそいませし西山に~」と、ラジオ体操の後歌った。最初、「かくそ」の意味が「?」だったが、覚祖とは覚如上人のことである。幼稚園の園庭が挟まれて前まではいけなかったが、手を合わせることができた。

風は冷たいが、青空が広がって気持ちのいい一日。
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  ≪覚如上人の墓所≫

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成道会~八つの悪魔の軍隊~

 お釈迦さまのおさとりをお祝いする成道会。ほんとうは12月8日だが、都合で1週間遅らせて法話を担当することにした。子ども向けにお話ししたが、いま大人向けに変換している。

 まず、成道会の成道とは「道が成る」ということだ。「道」とは、さとりへの道、つまり仏道という意味があって、さとりそのもの、菩提ということを指している。つまり仏道が成った、さとりを開かれたということである。ちなみに、華光会館の2階は本堂ではなく「道場」といっているが、これはお悟りを開かれた場所のことであり、仏道を求める場所である。真宗の場合は、真宗念仏によって仏道を歩むので、念仏道場ということになる。

 そして、実際のインドのブッタガヤの写真や、勤苦六年の苦行中のお姿を仏道の写真をなどをみてもらいながら、釋尊が、快楽主義で真実を誤魔化していくのでも、苦行主義で肉体を責めていくのでもなく、快楽も苦行の極端を捨てて、菩提樹の下で、こころ静かに最後の禅定に入られた時に、悪魔が大軍をもって責めてきたことをお話した。仏典では、悪魔とは煩悩のことだが、これがいわゆる三毒の煩悩のような貪欲・愼恚、愚痴というものだけでなく、仏道修行の妨げとなるこころの迷い、悪魔を顕している。つまり、
「欲望、嫌悪、飢渇、妄(盲)執、怠惰、恐怖、疑惑、みせかけ・強情が、八つの悪魔の軍隊として顕されているのだ。こうきかせもると、単純な煩悩というよりも、今日の私達が聞法や求道を妨げようとするこころに関連してくる。怠けたり、疑いをもったり、恐れたり、自己嫌悪になってり、外面の恰好だけだったり、からだ(健康)に執着したり、根拠もなく盲執したり……。真宗の獲信は、おさとりそのものではない。また、聖道の道と他力淨土の道とは別である。しかし、仏道を妨げようとする心の葛藤、迷いは、通じるものがあると思ったからだ。おさとりとはいわなくても、真宗念仏の道も、聞いても聞かなくてもいいような安いものではない。この変わり目に一大事があり、そこに心血を注ぎ求めていく道であることをお伝えしたかった。

 それにしても、子供さんも人数があり、大人の参加も多くて、とても賑やかで、活気のある成道会となった。

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華光誌輪読法座は正信偈講讃

今月の華光誌輪読法座も、先月に引き続き「正信偈講讃」。

土曜日だったが、参加者が少ない。家族が3名、Tさんと併せて、会館から4名。外からの参加者もよりも多いのが、かなり寂しい。この法座は、土曜日によりも、平日の方が参加者が多いのかもしれない。

先月が十二光で、救済(ぐさい)の縁であったのに対して、今月は「救済の因と果」である。行・信・証のお救いの核心部分である。悟朗先生の解説も、聖人の「五願開示」の立場に言及された解説もあって、なかなか難しい。

皆さん、読むので精一杯。なかなか感想や味わいが出でこないのは、教義的な部分だからだ。それだけしっかりと読ませてもらえばよいということ。同時に、我々の集いは、しっかりと真宗教義の本道を歩んでいるということでもある。それが、体験的に味わえるのだから、勿体ないことである。

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華光誌作業完了

いろいろとたいへんだったが、「華光誌」と「年賀交歓」が完成し、夕方に印刷所に渡る。予定どおりだ。新年号の華光誌は記事が多くて、48頁建て。随想もあって、体験記はひとつだけとなった。残り、次号に回る。読み応えがあると号なので、お楽しみに。「年賀交歓」も例年の頁数。ただ「年間行事表」だけは、月曜日渡しとなった。まだ確認とれていない箇所があるからだ。

引き続いて、毎月の会計士のY先生との月次の報告。毎年、毎月、ボチポチというのが華光の会計である。ただ、ボチボチでも、上向きのボチボチと、下向きのボチボチがあるが、最近は下向きの時が多くなった。

その後は、「本典」の勉強会に移った。まったく準備は出来ていないが、学生時代の書き込みが、まだ生きているのが確認できて面白い。行巻は、普賢先生の研究室で読んでいたが、その時は、まったく不勉強、無知を恥じるばかりである。その意味ではいまもまだ何も分かっていないのだが、ただ学習意欲だけは高い。しっかりと読んでいきたい。

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焼き過ぎ芋

華光誌の印刷所への渡しが明日に迫り、作業大詰めを迎えている。朝、いつものようにTさんが出勤。その30分後、Rちゃんも定刻に出勤した。

その時、一歩足を踏み入れた途端、香ばしい匂いに気がついて、1階の台所でパンでも焦がしているのかと問われた。実は、その少し前、夫婦の間でも同じ会話をしていたのた。事務所に向かうために1階廊下に出て、ぼくも驚いた。廊下が、何かが燃えた匂いが充満し、うっすら煙っているからだ。みんなで火元を探すべく、2階、3階を回った。ぼくは消火器を手にしていた。ぼくは念のため、慌てて3階をあがる。ところが、ここはまったく何もない。2階の道場はすでに煙が充満している。排煙用の窓を空けつつ、火元を探すが分からない。仏壇にはロウソクも線香もつけてはいない。いくらを探しても火元が見つからないのに、相変わらずに煙が満ちている。Tさんが消防に連絡しようと思った矢先に、彼女が叫んだ。

「あああ、犯人は私でした」。

え、2階の炊事場の声のところにみんな集まる、地べたに置かれたi電子レンジから煙がでているではないか。自宅で焼き上げた焼き芋を温めるために、朝いちばんに電子レンジに入れて10分加熱したものの、そのまま忘れていたという。それが発火しレンジの中で真っ赤に燃えているのだ。しかも熱の勢いでレンジの蓋が勝手に開いて、そこからモクモクと煙が出て、道場に充満していたのである。慌てて、サイマイモの火を消すと、イモは完全に炭化し真っ黒になっていた。いや、見事な焼き具合である。

それにしても、久しぶりにドキドキとした。そのあとで、おかしくなって、みんなで大笑い。笑い話になったからよかったがほんとうのことだったら、今頃真っ青である。こうして、突然、災害や火事に遭うということが、よくよく分かった。いやいやドキドキと興奮しました。

そして、Tさんは芋断ちを誓うのであった。

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大詰め

 高山支部法座のあとも、6日が「仏書を読む会」、9日が「聖典講座」で阿弥陀経の最終回、さらに10日がお寺を会所にした「東海支部法座」と法座か続いてる。

 しかし、プログはお休みになっている。

 華光誌の編集作業があったのだ。

 例年のことだが、新年号の発行は通常号の2倍以上の手間がかかる。11月下旬から始めているが、年内発行のために〆切日が厳守であること。華光誌本体に加えて、「年賀交歓」の作製作業があること。さらに、「年間行事表」の作製もあるが、こちらは、華光大会以降に本部と支部の行事のすり合わせが必要になるなど、かなり頑張らないといけない。

 華光誌は校正や編集作業が中心で、作製はRちゃんの仕事になるが、「年賀交歓」と「年間行事表」は、版下作製もぼくの仕事で、古いPCで作業をしなくはならない。年内発行のためのタイムリミットもあるので、かなり効率的に集中して作業する必要がある。申し訳ないが、ブログまでは手が回らず、ちょっと休止状態たった。

 若い時のように徹夜の作業は出来なくなった。夜更かしの作業はしても、完徹はなくなった。多少年齢と共に無理が利かなくなっている。でも、その分、経験で補っている部分もあるようだ。

 おかげて、華光誌は15日中に。年賀交換も16日に、印刷所に渡せるメドがたってきた。だだ「年間行事表」は完成しても、各支部との確認のすり合わせが必要なので、18日の月曜日の午前中まで、待ってもらうことにした。年内発行のタイムリミットになるが、メドは立っている。

もう一息である。

 

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高山支部報恩講

Img_4885  12月の高山支部法座は、報恩講さまだ。

 毎年恒例なのだが、今年は会所がいつものF家ではなく、S家でお世話になる。

 遠近からのお参りがある。新潟、富山、福井、愛知からの同人に加えて、ご近所や親戚方もお参りくださる。こんな時の法話は、焦点の当て方が難しい。遠方の参詣者は求道者で、かなり厳しいご縁をImg_4893求めてお出でになった方。一方、ご近所の方は、Sさんに誘われた方がボチボチお参りされる。Sさんのお徳である。

 報恩講で「正信偈」さまを勤めした。法話の冒頭は、「帰命無量寿如来・南無不可思議光」のご文のお心をいただくことにしたら、案外、いつもの高山の皆さんが喜んでくださった。

 もう一席は、「恩徳讃」のおこころ。日頃、なんとも思わず、こんな厳しいご和讃を付け足しのように頂いていることが、恥ずかしくなる。どれだけ仏法のことにこころ寄せているのか。ほんとうに身を粉にして報じ、骨を砕いて謝して、仏恩を喜んでいるのか。ご報謝どころか、仏法の座に足を延ばさなくても、平気で開き直る。自分を楽しませることには金出しても、仏法のために使うのはおしい。お慈悲、お慈悲と有り難いことはつかむが、まったくお心とは正反対の自分の姿には目をつぶる…。それでいて、平気で、恩徳讃を歌っている。まあ、狂ってますね。庄松さんのありのまま記のエピソードを交えて、お話申し上げた。

 その後で、報恩講なのでお斎弁当をいただいた。でも、精進ではなく刺身も入ったかりの豪華版。おいしかったです。どんなご縁の後でも、食欲は別ですね。南無阿弥陀仏

 華光誌編集作業も大詰め

 高山支部法座のあとも、6日が「仏書を読む会」、9日が「聖典講座」で阿弥陀経の最終回、さらに10日がお寺を会所にした「東海支部法座」と法座か続いてる。

 しかし、プログはお休みになっている。

 華光誌の編集作業があったのだ。

 例年のことだが、新年号の発行は通常号の2倍以上の手間がかかる。11月下旬から始めているが、年内発行のために〆切日が厳守であること。華光誌本体に加えて、「年賀交歓」の作製作業があること。さらに、「年間行事表」の作製もあるが、こちらは、華光大会以降に本部と支部の行事のすり合わせが必要になるなど、かなり頑張らないといけない。

 華光誌は校正や編集作業が中心で、作製はRちゃんの仕事になるが、「年賀交歓」と「年間行事表」は、版下作製もぼくの仕事で、古いPCで作業をしなくはならない。年内発行のためのタイムリミットもあるので、かなり効率的に集中して作業する必要がある。申し訳ないが、ブログまでは手が回らず、ちょっと休止状態たった。

 若い時のように徹夜の作業は出来なくなった。夜更かしの作業はしても、完徹はなくなった。多少年齢と共に無理が利かなくなっている。でも、その分、経験で補っている部分もあるようだ。

 おかげて、華光誌は15日中に。年賀交換も16日に、印刷所に渡せるメドがたってきた。だだ「年間行事表」は完成しても、各支部との確認のすり合わせが必要なので、18日の月曜日の午前中まで、待ってもらうことにした。年内発行のタイムリミットになるが、メドは立っている。もう一息である。

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南無阿弥陀仏

Img_4876_2_2 先日、旦那様を亡くされたOさんが、悟朗先生のお名号を抱えておいでになった。

 もともと先生がき日に、義母親さまに依頼で、揮毫されたものだ。それが表装もしないで飾ってあったのを、これを機会に、会館経由で表装の依頼されたものが、完成してきたのだ。

 だいたい父の名号は、かっちりした楷書が大半で、少し隷書体のものある。それだけのこの書は、珍しい。母は、この手の書を観るのは初めてだといっている。ぼくは、日高にあるものと、100歳で亡くなった京都の古い同行のお宅で拝ませてもらっている。それでも、2、3あるなかでもかわってものなので、なかなか貴重ではある。

 若い日のものだけに、勢いも感じさせる書体である。 

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映画の日なのに、、そして『不都合な真実2』

 12月1日は映画の日。

 朝刊の1面を見て驚いて、まだ布団の中にいた連れ合いを起した。

「京都みなみ会館、来年3月で閉館」。

 1面だったのは、京都新聞だからだが、新聞記事でショックを受けたのは、久々。最近は、ネットやテレビの方が先行していくからだ。閉館通知の告知が1枚、夕方に郵送されてきた。ビルの老朽化での耐震性の問題と、契約更新が絡んでいるようだ。

 歩いて行ける距離に2軒の映画館がある。ひとつは、大型ショッピックモールの中のシネコンだが、京都の映画館では一番縁遠く、年に数回程度利用する程度。唯一特典がないからだ。
 そしてもう一軒が、このみなみ会館だ。映画を見るようになったのも、この映画館のおかげ。京都シネマができる前は、京都で唯一のアート系映画館だった。名画もみたし、一般にはしられない佳作映画もたくさん見せてもらった。中学校への通学路にあるが、そのころはピンク映画館。お色気ポスターにドキマギしながら覗き見していた。夏休みだけは子供向けのマンガ祭りで怪獣映画などもやっていた。それが、同じ地区にある企業が買い取り、アート系の映画館に生れ変わった。かなりコアのファンも多い。ちなみに買収した業者の社長は同級生で、中学生の頃には、彼の自宅で、一緒に宿題をしていた。

 ただ、ほくは、最近は京都シネマで大半の映画を見るし、松竹系のmovix京都や桂川のイオンシネマなどのシネコンにもよく行くので、みなみ会館は4番手くらいになっている。それでも、マニアックなライナップは魅力だし、近いというメリットは大きい。法座の開始前や開始後でも通えるからだ。そして、5分前に家を出ても間に合うのだ。

 そう考えると、たいへん残念だ。来年3月まで。もう少しお世話になるだろう。

 といいつつ、今日は映画の日なので、二条にある東宝系の映画館へ。

 元アメリカの副大統領のアル・ゴア氏の『不都合な真実2』~放置された地球~

 やっぱり前作の方が、断然、面白かった。あの時は、歴史的大接戦の末、共和党のブッシュ大統領の政権下で、逆風の中での活動がこころ引かれたが、その後、民主党のオバマ政権になって、政治の中枢ともパイプが生きている。でも、 最後にトランプ大統領が登場して、今度は猛烈な暴風雨である。それだけに、映画の最期の演説は感動的だった。

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