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今、一定

 今回の華光大会は、中日の昼座に、伊藤康善先生の五十回忌と悟朗先生の三回忌を併修した。二十五回忌や三十三回忌の時には、面授口伝の直弟子方(?)が勢ぞろいされていたが、今回は、その先生方もお浄土に還っていかれた。しかしそれでも、華光で伊藤先生の五十回忌法要を勤めることができたことは、感無量だ。

Img_3875 法要では、表白文もあげさせてもらった。三十三回忌法要の時に悟朗先生が考えられたものを下地に、少し加減をさせていただいた。ベースはそのままだが、ぼくなりの表現も加えたので、参詣の皆様にもお配りして、ともに味わっていただいた。

 ところで、伊藤先生没後十年のおりに『伊藤先生の言葉』が発刊された。その記念の報恩講で、「伊藤師を偲ぶ」というテーマでの悟朗先生のが法話されている。法要の、その時の法話テープを聞かせていただいた。両先生の遺影を前に、講演台から音源を流して、皆さんと一緒に拝聴させていただく。昭和54年なので、悟朗先生が53歳。いまのぼくの年齢に近い。声が若々しく、目を閉じていると、いま目の前でご法話をされているかのようだ。伊藤先生との愉快なエピソードも交え、おかしなところでは皆さんも笑われておられる。最後は、「グズグズ長綱を引くなー。いま、ここで聞かせてもらえ!」と厳しいお勧め。涙が溢れてくる。懐かしさというより、その厳しさが尊かったのだ。ほんとうのことをほんとうに教えてくださる先生であったことを改めて聞かせていただく。

 その後、伊藤康善先生の「自力の迷情」の後半部分を聞く。これは、三十三回忌法要の時にも聞かせていただいている。伊藤先生が、昭和33年のアメリカ布教された折りのご法話で、もともとオープンリールで録音されたのもを、後にカセットテープに複写し、それをCDにしたもなので、音源は悪い。でも、テープを起して、文章にしたものを、華光誌52巻2号に掲載した。今回は、CDだけてなく、この華光誌もお分けしたので興味のある方は、華光会館までどうぞ。ぜひ、ご精読いただきたい。

 今日の真宗界では、自力の心を軽く考えていて、聖人が比叡山を降りて聖道・自力を捨ててくださったおかげで、今の私達は聖道自力は捨て、ご本願ひとつを聞かせてもらっているので、そこはもう問題ではないというような話になっている。しかし、自力はそんな生易しいものではない。生死流転の本源をつなぐ「自力の迷情」なのである。そこひとつで、ここまで迷ってきて、またこれからも迷っていくのである。しかも、自力は、わが力ではけっしてどうすることもできない最難関だ。如来様の願力によらねば決して破られることのない。そしてその自力の迷情が共発金剛心の一念にやぶれたならば、何も握るものも、頼るものもない。一切を放下して、「今一定」と喜べるのである。あの時、聞いたとか、あの時はこうだったとか、過去や体験を頼るのでも、善知識を頼ることもない。常に、「今、一定」の味があるというのだ。

「生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて、知識伝持の仏語に帰属するをこそ、自力をすてて、他力に帰するともなづけて、また即得往生ともならひんべれ」(『改邪鈔』)

 これをうけた後半の分かち合いも、また伊藤先生の薫陶を受けられた方々のお話も、過去を偲ぶのではなく、今、ここに、両師のみ教えが息づき、それを喜ぶ者がいることが有り難く、ほんとうの意味での五十回忌に相応しいものだった。南無阿弥陀仏

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