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ご示談にて~聴聞は具体的に~

   華光大会が終わって、ずいぶんと大きな力をもらい、やる気もいただいた。それは参加の皆様も同じで、ご法を喜んでおられる方も、またまだグズグズと悩んでおられる方にも、さまざまけな影響を及ぼしている。大会の翌日から「心境を聞いてもらいたい」とか、「最後の法話での質問がある」とかいう電話が続いた。感想をメールでくださる方も多い。ご法に撃たれたのは、ぼくだけではないのだ。

   昨日も、「東京から京都まで行くので、ご示談をお願いします」という方があった。これまであまりご縁のなかった方で、会館は2、3度という方である。大会はフル参加だたっが、一度も座談会に出席されていない。食事も懇親会も別だったので、その心境も、これまでの経過もほとんど知らない。当たり前のことたが、一方的に説教することがご示談ではない。相手の心境や問題点もよく知らなければ、お話することはできない。それで、だいたいこんなお申し出は、「まず法座や座談会にご出席ください」と申し上げるのだが、今回は、ちょっとしたご因縁もある方なので、「では、ご示談というのではなくご心境をお聞きするのなら」と引き受けることにした。

 やりとりの詳しいことは述べられないが、実に、ご自分の姿を繊細にご覧になり、詳しくお話くださる。そのことは関心したが、法座で自分が感じたこと、受けたことばかりで、肝心の阿弥陀様のことは一言も(みごとに一語)出て来なかった。もろちん、吐き出すだけださねばならないということもある。一通り、聞き終わって、「ここまで語られて、どんな感じがしますか」と問いかけると、ご自分でも、そのことに気付かれているようだった。

ところで、「阿弥陀様のご苦労が私のこととして感じられません」という方がよくおられる。そこで、「では、阿弥陀様のご苦労とは具体的にどう聞いていますか」と問う。だいたい、「私を救うためにたいへんなご苦労をしてくださった」というような返事が返ってくる。では、「たんへんなご苦労とは何ですか」と重ねて問うと、大半はそこで詰まられるか、または「南無阿弥陀仏を成就してくださるために、いのちを投げ捨ててくださった」というようなお答えがある。さらに、「ては、いのちを投げ出すとはどういうことですか」と重ねると、返答に窮されてくる。結局、阿弥陀様のご苦労といっても、それを具体的に聞くこともなく、「感じられない」「喜べない」という自分の感覚に焦点があっていくのだ。プロセスを経ずに、ただ最後の答えだけを求めて焦っているパターンを繰り返す方も多いような気がする。

または、具体的に阿弥陀様のご苦労をといわれると、法蔵菩薩になってからの世自在王仏との出会いや五劫思惟から始まる一連の物語を考えられる方もある。確かに、ここもしっかりと聞かねばならない。しかし、正解だけ覚えてもダメで、その上で、それを我が身に引き寄せて考えなければ、意味はない。これは我が身の罪悪ということしても、またご本願ということにしても同じことだとろう。

 今回の華光大会の座談会でも、そんな場面があった。それで、皆さんに問うた。

「では、皆さんは、阿弥陀様のご苦労をどう聞いておられますか。ご自分の言葉で聞かせてください」と。

 ぜひ、皆さんも自分のこととして、お聖教の受け売りではなく、また「根拠・根拠」とがんじがらめになるのではなく、ほんとうにわたしにびったりした言葉を探っていくならば、ハッキリと立ち上がってくることがあるのだと思っている。

 というのも、今回の華光大会のご示談で、そんな求道者を前にして、ぼくの中で、「ああ、、」と気付かせていただいた言葉があったからだ。答えを与えることになるので、今はここまで。

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