福井での聞法会
有り難い、不思議なご縁をいただく。
大谷派の福井別院へ。福井のある組(そ)の同朋会の聞法の集いに、講師としてお招きいただいいた。お東のご本山は、昨日まで御正忌報恩講さまであった。この組でも、昨日は本山参詣で、帰宅は夜になったという。
どなたでもということで、法話案内にも掲載させてもらったこともあって、いつものご縁の方もお参りくださるし、また久しぶりの珍しい方もおられた。もちろん、もともとの同朋会のメンバーもおられる。お話を窺うと、熱心な方もあるが、お寺の坊守さんだったり、昔からの強信のおばあちゃんは、頷きながら聴聞されて、「聴聞の要」という演題だったので、参詣しましたと仰られた。
演題は、「聴聞には要」として。法話を聞くことは、一般の講演を聞いたり、映画を見ることとは違う。感激しかり、感動したりすることが目的でも、何か功利的なこと、ためになる役だだつことを聞くことでもない。しかし、聴聞の要もわからないまま、なんなとく漫然と聞いていることが大半ではないか。何のために、またどこに焦点を当てて聞くのかも分からなくても、説教聴聞は成り立つのである。それでは、ある意味、テレビを見て、リラックスしたり、感動したり、為になる聞き方と差異はない。
まずひとつめは、人間一般のことではなく、すべて、私(自分)のことを指されていると聞くことが肝要である。しかも、指さすは、真実そののの阿弥陀如来さまである。そのことに反発するのか、納得いかないからといって、反論や否定をしてしまわないで、まずは自分の思いは少し脇に置いておいて、仰せのままを聞かせていただくことが出発点である。
そして、もうひとつ、ここは今生(世間)の問題ではなく、後生(出世間)の問題を解決するのが,仏法の眼目だということだ。残念ながら、長年、ご聴聞されている方でも、この峻別がつかないことが多い。人のことではなく、自分のこととして聞法するという方のなかでも、なかなか後生の解決に焦点が当たるまでにはたいへんなことだ。決して能力の違いではない。ただ、これまでそのようなお育てを受けてこなかったら、当然、そのような問題意識も起こってはこないだろう。
今回は、かなり丁寧にそのあたりをお取り次ぎした。また最後の座談会では、お墓や院号、若い世代への仏法相続といった質問が多かったが、それでも丁寧にお答えをさせていただいたつもりだ。どこまで伝わったかは分からないが、まずはその一歩。
来春にも、もう1度、ご縁をいただいた。
御世話役のOさんご夫妻、ありがとうございました。
法座のあと、福井の日赤病気に法友をお見舞いにいく。
かなりお悪いと聞いていた。ご本人の口から「もう長くはない。年内も危ない」という話もきいたいた。やるべきことはやり尽くされてはいるが、まだまだやらねばならないこともあっただろう。高齢の方ではないだけに、とても無念ではあろう。
ところが、ベットに寝ながら、六字釋のかなり厚い解説書を読んでおられた。脇にはパソコンが置いてある。最後に自分思いを、残された縁者や子供たち、孫たちに伝えたかったというのだ。そのために、最後の力を振り絞り、全身全霊をかけて、遺書といってもいい、文章を書き終えられたのだそうだ。
執念である。
まったく予想外の訪問だったらしく、たいへん喜んでくださって、ほとんどの時間を仏法の思いを語り続けられた。まさに篤い言葉が続いた。お疲れにならないのだろうかと思うほど語り続けられた。
お見舞いにいった僕の方が、元気をもらい励まされていた。
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