四十八願のこころ(15)第二十八願~三十願
あるお寺の寺報に連載している四十八願のこころも、もう三十願までやってきた。二十一願をすぎて、取り上げるペースは早まるが、あと3年くらいはかかるだろう。
たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩乃至少功徳のもの、その道場樹の無量の光色ありて、高さ四百万里なるを知見することあたはずは、正覚を取らじ。(第二十八願・見道場樹の願)
たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、もし経法を受読し諷誦持説して、弁才智慧を得ずは、正覚を取らじ。(第二十九願・得弁才智の願)
たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、智慧弁才もし限量すべくは、正覚を取らじ。(第三十願・弁才無尽の願)
二十一願からは浄土に生まれ仏にとなった者に対するお誓いで、その中心は、二十二願・還相廻向の願です。それに続く誓願は、還相廻向のお心から展開しますが、二十三~三十願は、主に浄土の菩薩に対する誓願で、今回は第二十八願~三十願のお心を窺います。
まず、第二十八願は、見道場樹の願と呼ばれます。浄土の道場樹が、四百万里もの巨大で、限りなく光輝くこと知り、仰ぎ見させようという願いです。道場樹とは菩提樹のことで、その樹下でお悟りを開かれた場所で、如来様を象徴しています。つまり、限りなく光輝く阿弥陀如来を仰ぎ見させようという願いでもあります。
次の二十九願・三十願は、弁才智慧-心のままに自由自在な弁舌(演説)がふるまえる智慧が備わらせようという願いです。第二十九願は、得弁才智の願で、教えを受けて、口にとなえて、また心に保ち、そして人々にと聞かせれるために思いのままに弁舌をふるう智慧が得られないのなら、仏にはなりませんという誓願です。
また第三十願は、弁才無尽の願で、その弁舌の智慧に限りがあるようなら、私は仏にはなりませんという誓願です。つまり、教えを理解し説法をする能力を限りなきものにしようという願いです。
以上、浄土の菩薩方は、「見仏」(二十八願)・「聞経(法)」(二十九願)・「説法」(三十願)が、心のままに自由自在であることを示しておられると窺うことができます。
最後に、第二十八願のもう一面は、「少功徳のもの」に願われ、また「四百万里」と限定された数量が示されます。無量無辺の浄土で、広大無辺の功徳を得るのに、それを限定されることから、親鸞様は、これは化土であり、方便の願、十九願成就文だと頂かれています。
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