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広島での百カ日法要

 週末は、また台風が接近して、雨になった。

   ご縁あって、広島での百カ日法要にお招きいただくことになった。

 施主に願いがある。お父様が亡くなられ、収めきれない思い、もしくは割れ切れない思いを、法座として実現してくださった。8月から、何度も進行の打ち合わせをする。呼びかけ一つでも、最初は親族や親類中心だったが、華光の仲間に増え、さらには真宗カウンセリング関係の方と広がっていく。当然、対象者が変わると、法話のテーマも変わってくる。ただ、ふたを開けないと、誰がこられるかはわからない。それで、法話は、親戚の初心向け、広島の真宗カウンセリングの方向け、さらに華光の方ばかりの時と、3種類を用意しておく必要があった。

 で、蓋を開けてみると、予想外に親類の方がお参りくださった。加えて、真宗カウンセリングで初参りの方もある。もちろん、華光の同人も方もそれなりにお参りされている。ある意味で、三すくみだ。

 でも、こんな時に、カウンセリングの経験が役に立つ。場を信じる力を頂いているのだ。打ち合わせどおり、法要の後は、法話ではなく車座になっての座談会。それも一言ずつのチェックインである。ただ、これもいつもの間にか拡大運営されている。もともとホテルでのチェックインのように、開始にあたってその場に入る作法のようなものが、何故か、かなり長い話となり関わりまでもおこってる。もう、チェックインとはいえない。が、今回は、それがよかった。故人のご兄弟(九十歳を超えておられる)から、故人の人となり、お子様も知らないエピソード、さらに戦争中の秘話などが次々飛び出して、同じような共感される方もでて、深いご縁となった。

 残念ながら、もう少し深めていきたいというところで、高齢のご親戚の皆様は、退席。逆に、華光同人と、カウンセリング関係の方ばかりになったので、初参加のカウンセリング関係の方に合わせて、 真宗とカウンセリングの接点についてのご法話をした。一言でいうなら、カウンセリングというのが抵抗がある方には、真宗カウンセリングとは、僧俗・信未信にかかわらず、共に育ち合う、聞き合う法座でありたい、共に浄土往生を目指す集いでありたいという、大きな願い支えられている、と言いたいのだ。

 最後に、分かち合って4時間の法要は終わった。
 ある意味、温かいご法要ではなかったか。
 また、施主のご姉妹から、一つの区切りになったという声がでる。それが法事の意味でもあるのだ。収まらない思いが、ある場所に収まっていく。もちろん、それですべてが解決したわけではないが、収まる場所(スペース)が出来ることで、重荷が重荷でなくなり(別になくなったわけではないが)、軽くなって、次に進んでいけるのである。プロセスは刻々と流れ、変化する。しかし、悩みがある時は、私の気持ちだけがそこで止まり、淀みが出来る。それが悩みとなっていくのである。別の言い方をすると、苦しみや悩みの状況でも、それがドンドン流れ止まることがないのなら、悩みにはならないのだ。

 お二人のその一言でも、今回の法要の意義があったと感じられた、ほんとうにいいご縁でした。南無阿弥陀仏

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