九州支部法座~一歩前に~
初日の昼座。法話のあと、一言ずつの自己紹介がおわり、すぐにAさんと向かう。1年ぶりである。今回のご正客と定めていた方だ。昨年、初めてご縁を結び、ご示談となったが、とうとうお念仏の声がでなかった。そのことを1年間、ご本人は心にかけつづけておられた。ご高齢で、しかも喉頭ガンの治療もあって声が出にくい中での決死の参加である。
最初から、「獲信させてもらいたい」とか、「ここで聞かせていただく」と、ありありと「ご信心が欲しい」と意気込んでおられる。でも、焦りは禁物だ。その言葉には乗らないで、「『聞きたい、聞きたい』というお気持ちはよく分かりますが、何を聞かせていただくのですか。褒美ばかり気になって、肝心のコースを走らないとゴールはできませんよ」と。でも、「何を聞くのか」と改めて問われると、しばらくは自分の欲しい気持ちばかりを述べられる。相手は高齢者である。相手のペースで、その都度受けながらも、「では、何を聞くのでしょう」と何度も聞き返す。やっと「ご本願を聞かせていただく」いう答えがでる。では、「ご本願とは何ですか」と問う。分かっているつもりでも、改めて問われると息詰まられたようだ。でも、与えられた答えではなく、ご本人の口から聞きたかった。もちろん、もし分からなければ、「お教えください」と頭を垂れて聞けばいいのである。自分に問われておられたが゛「阿弥陀様のお呼び声です」という答えが出る。
では、「阿弥陀様はなんと呼んでくださっていますか。Aさんが阿弥陀さまになって、前に座っていると仮定したAさん自身に呼びかけてください」と。でも、これはなかなか難しい。主語が自分になられる。目の前にイスをおいた。サイコサラピーでいうところのエンプティー・チェエーである。なかなか高齢の方には難しそうだったので、ちょっと目に入ったSさんにAさん役をお願いした。この時、彼女は、「あ、私がでなければ」と思っていたのである。以心伝心であった。
おかげで、Aさんもイメージをもちやすくなられたようだ。改めて、「阿弥陀様のなんと呼びかけてくださっていますか」と問うと、「アッ」と声に出していわれた。何かに触れられたのは確かだ。誰からが、代わりに声をだされたが、あえて制した。本人自身の声でないと、今は意味はない。そこで、「それを声に出してください」というと、「Aよ、直ちに来れ。今すぐこい」といわれたのである。目からはスーと涙が出ている。「そう! 汝一心正念にし直ちに来れ。我よく汝を護らん」とぼくも言った。そして、AさんよくのSさんに、「Sさん、今度は阿弥陀さんになって、今のAさんに声をかけて上げて」と頼んだ。一瞬、戸惑われたが、「ありがとう。よく聞いてくれた」と、頭を下げて、Aさんを拝まれたのだ。もうそれだけで充分だった。
「さあ、Aさん、南無阿弥陀仏様にお念仏申しましょう」とお勧めした。下は冷たいタイルである。クツも履いたおられるし、第一、足もお悪い。お名号の前に、「まあ、仕方ないのでここに座られたら」とイスを勧めたが、なんとイスを避けて、お名号様の真ん前にクツのまま正坐されると、頭を床にすりつけて、「申し訳ありませんでした。勿体ない。南無阿弥陀仏」と懺悔されて、お念仏されたのである。ノドの具合がお悪いので、決して大声は出ないが、それでも精一杯のお念仏である。皆さんも、一緒にお念仏されて、この数年、関わり続けてくださっていた支部長のTさんも、本人以上に喜んで、共に並んでお念仏されている。
もしかすると、ぼくは、もうAさんとは今生最後のご縁になるのかもしれないが、なんとも言えない尊いお姿に、共にお念仏せずにはおれなかった。まさに阿弥陀様の念力である。
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