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華光誌輪読法座~「法乞食になって聞け」~

 今日は朝から夜までたいへんな1日だった。

 朝から歯医者で2時間半も診察台に座って、口を空け放し。麻酔があるので、痛みはないが、不快な感じこのうえなし。寝そべっているだけでも、疲労しフラフラになりながら戻ってきて、すぐに輪読法座を行う。終了したら、レジュメを仕上げ、真宗カウンセリング研究会の月例会に臨む。当番なのだ。

 まずは、華光誌輪読法座である。このところ寂しかったが、今月は二桁の参加者があった。東海からも2名、久しぶりの方もあって活気があってよかった。

 巻頭言「法乞食になって聞け」を読む。伊藤康善先生の五十回忌法要を前にした所感である。

 しばしば問題にしているが、法の伝え方や聞き方、信仰のあり方、同人が集う空気感など、最近の変化が気になっている。もちろん教えや説きぶりは、時代と共に、また人が変わばれが変化する。徐々にだったり、知らず知らずということもあろう。また大きな出来事がきっかけになることもある。いい意味で、時代や機に相応していくことも必要だ。ただ、これだけは変えてはいけない、伝えていかねばならないものが明確なのが、華光の集いだ。そのために批判され、孤立しようとも、そこは曲げられない。それかどこにあるのかを改めて確認したかった。もろちん、そんなことは分かっているという方もあろう。しかし、「分かっている」ということと、それが実践できているということは、まったく別のものだ。分かっているのに実践出来ないという自覚があればいいが、実践出来ていると錯覚していくことが、一番恐い。

 たとえば、タイトルの「法乞食になって聞け」ということひとつでもそうだ。これは、伊藤先生の言葉で、悟朗先生からお聞きしたものだ。この言葉をどう捉えるか、皆さんで出し合ったが、各人さまざまな味わいがあって、逆に驚いた。その意味で、分かっているつもりの「つもり」を捨てて、まず率直に語り、聞き合うことが大切である。

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