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一周忌の法要

 一周忌の法要に大阪の豊中市に向かう。

 昨年の9月。台風の日だった。さまざまなご因縁からご示談に窺った。そして、「また次に。来月にでも」とお別れしてから1ケ月後には、その方のお葬儀を引き受けることになっていた。まさに「またね」なかったのである。あれからもう1年。早いようで、ものすごく昔のようにも思える。この間にも、さまざまな無常のご催促があったが、相変わらず人事として生きている。

 ご主人と、お子さんたちの家族というほんとうの身内さんだけでの法要だ。このことがご縁で、お孫さんたちは子供大会にも参加してくれるようになった。それで、法要の最初に「子どもの聖典」でお勤めをした。小さな子供さんでも、ここだけなら飽きずに座ってくれるだろう。続けて、皆さんと共に勤行くださるように、お『正信偈』さまをあげさせていただいた。

 法話は、子供さん向けにしたが、仏縁の浅い方にも向けていた。先日の無着先生から教えていただいた、おっぱいと、へその緒の話だ。結局、私は親の恩徳なしには生まれてこれなかったということだ。しかし、まったくそんなことは何も知らない。当然、実感などない。しかし、ひとつでもその恩徳が欠けていたなら、今の私はここに座っていない、という事実を聞かせていただく。人身受け難しということだ。では、それはなんのための命なのか。あらためてお母さん、お祖母ちゃんの法要の前に、ひとりひとりが考え、聞いていただきたい。

 一周忌の法要を勤めた後は、墓所に参って納骨も行った。ご姉妹は、ホッとされたという。形の上でもひとつの区切りがついたという雰囲気がした。形はこれで一区切りとなったので、これからは落ち着いたところで、改めて親の願い、そのお心をしっかり味わっていかれることだろう。南無阿弥陀仏

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