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『阿弥陀経』(7)~諸上善人・倶会一処~

 『阿弥陀経』の正宗分(本論)は大きく三段に分かれる。前回の第一段で、阿弥陀仏の極楽浄土と阿弥陀仏の荘厳についての讃嘆された。次いで今回の第二段は、いかにしてその極楽浄土に生れるのかで、念仏往生の教説が示される重要な段で、さらに三節に分科される。
 まず一、発願で、浄土往生の願を起こすことを勧められ、
 次いで二、正因では、少しの善根功徳の行では浄土往生できず、念仏よりほかに浄土往生の因はなく、
 その結果(三、正果)臨終に如来の来迎を受け、極楽に往生すると説かれる。
 テキストに使っている現代語版【五】は(前回の最終節)(1)浄土往生が優れた聖者であり、(2)その浄土に往生することを願う(発願)。(3)少しの善根功徳では往生出来ず、(4)名号を執持する念仏往生(正因)し、臨終来迎での往生(正果)が説かれ、(次回の第一節)(5)釈尊自らが証明し、浄土往生を勧める(自証)の五分科の構成となっているが、ここでは三分科にしていただいている。

 まず、一、発願(浄土願生の勧め)である。

「舎利弗、衆生聞かんもの、まさに発願してかの国に生ぜんと願ふべし。ゆゑはいかん。かくのごときの諸上善人とともに一処に会することを得ればなり。」

 ぜひとも極楽往生を願えと勧められる一節である。短い一文であるが、いろいろと重要な問題が含まれている。
 冒頭は、「衆生聞者」-「衆生聞かんもの」とある。しかし「聞」とあっても具体的に衆生が何を聞くかは示されない。梵本には「聞く」の語はなくが、異訳である玄奘訳(称讃浄土経)には、

「もし諸々の有情(衆生のこと)、彼の西方無量寿仏の清浄仏土の無量功徳、衆(あつまって)に荘厳せられる所を聞かば」(真宗聖教全一巻)。

とあり、また文脈から窺っても、釈尊のこの教説、具体的にはこれまで説かれてきた阿弥陀仏と浄土の有り様とみるのが妥当であろう。

 そしてもうひとつが、「諸上善人・倶会一処」についてである。

 では、なぜ願生浄土を勧めるのかというと、すぐれた聖者方と倶(とも)に、同じ善きところで会うことができるからだと言われる。ただ「諸上善人」-もろもろの上善人とは、前段の「不退の菩薩・一生補処の菩薩」のことであることは明白である。講本によっては、拡大して善知識ともとれているが、そのまますべての亡き人を示すものではない。
 しかし、今日の浄土真宗では拡大解釈されている。この世で縁のあった今は亡き人々(大半は家族)と領解される法話ばかりだ。教学的な見解はともかく、実際の葬儀や法事の場では、この一言を金科玉条にして説教されている。残念ながら、親鸞さまがどう味わわれたかは誰も問わない。確かに、その方が耳障りはいい。商売上でも大切なことだが、それでは浄土「真実」の教えではない。
 決して亡くなった故人のことを云々するのではなくて、今、ここにいる自分はどうかという問うた時にも、皆、死後はお浄土で、倶会一処と、(先祖や親と)再会できるという答えで終わってほんとうにいいのか。これが浄土真宗の他力の教えであるかのような異義が、堂々と正統になっている現状に、たとえ苦しくても向かってかねば、ぼくのいただいた教えが、浄土偽宗に成り下がってしまう。長いものに巻かれれば楽だが、それではあまりにも悲しすぎる。ぼくがお法りをお伝えする意味がないのである。

 本論とは離れたが、ここはしっかりと肝に銘じたい。

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