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秋の彼岸の大阪家庭法座にて

  大阪支部法座が生駒市のK家の家庭法座として行われた。

 K家の家庭法座は、年に一度、春に開催されるが、急遽、会場の都合で秋も開いてくださることになった。今日は、お彼岸のお中日だ。お彼岸の法話をしようと思ったら、春のお彼岸のお中日もKの家庭法座になって、彼岸の法話をしていた。春も秋も彼岸の中日が同じ家庭法座になることは、なかなかないことだ。ちょっとしたご因縁を感じた。

 その上、亡くなられたご長男の三回忌が近いということで、簡単な法要も勤めさせていただいた。午前中、宇治の方面でお参りがあったので、一式、準備は出来ていた。故人はぼくと同学年で、50代半ばで早すぎる死であった。

 ご法話のあと、座談会。一言皆さんに回す。K家の家族のお言葉が有り難かったが、司会の方が気になる方の発言を取り上げた。要は、「信心にしがみついている(信心欲しい)のではいけないと指摘されるが、もう年をとりはやく聞き開かねばならない」というような内容だ。ただぼくが見る限りだが、ご本人の発言と実際の感じに隔たりがあるように思った。「聞きたい」といいつつ、今はほっておいていう感じだか。でも司会の方は、言葉の方を取り上げられたのだ。しばらくやりとりの様子を窺っていたが、縁他力的なおすすめがになっていく。わかりやすい。これなら相手も受けやすく、そこには素直に頷かれいく。でも畳や車のご苦労なら納得されるが、では南無阿弥陀仏となるとどうか。そすると本心からは納得されない様子がよく分かる。真剣ではない(本人の談は別だが)人に迫っていく気持ちはなかったが、やりとりを聞く内にこちらに火がついてきた。これは壮年の座談会の時も同じだった。いま、ぼくの中で動かす大きな力が働いているのだ。

 いつまでもグズグズと言いながら、一方で聞く気もみせるという煮えきれない態度や、甘いお勧めぶりに、机を叩いて迫る。ほんとうにその発言の言葉どうりなら、いま、ここで南無阿弥陀仏に飛び込む以外に道はないはずだ。そして南無阿弥陀仏を成就された阿弥陀様のおこころをお取り次ぎする。しかし、他人事のように首を傾げながら、わが胸に聞いておられる。いや聞いておられるのではない。自分の心の変化ばかりを追っておられるのだ。ますますこちらも力がはいる。「何をグズグズしているのか。いま、一歩出て聞かせてもらえ」と迫る。すると、突然、その前におられたYさんが立ち上がた。お仏壇の前にでて、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と号泣念仏が始まる。畳に頭をすりづけて「申し訳ありません。南無阿弥陀仏々々」と懺悔されているのである。生きたお説法だ。

 ところが、相変わらずご示談相手の方は人事のように座っておられる。逆に、その姿がぼくには有り難かった(お目当ての凡夫の姿だものね)が、せっかくのYさんのお勧めがいまあるのだ。『お念仏が出ない。こんなこころのままでは』という思いなら、その心にはかまわないで、Yさんの真似をしてください」と勧めた。やっと前に出られたが、Yさんのように頭は下らない。ぼくもYさんを真似て、さらに促してみる。少と頭が下るが、まだまたYさんのように畳にすりつけることはない。それでも高い頭のまま称名念仏される。何か気付いてくださるかと思ったが、何のことはない。大幅に時間オーバーしていることを気にかけておられる。先生や皆さんに申し訳ないというのである。うーん、ぼくの何を忖度されているのかな。複雑な気分。

 それにしても、言葉ではなく、目にものみせてくださったYさんの大芝居は、まさに菩薩の姿だった。もしかすると、それにまったく無自覚に他所事を感じながら、「欲しい、欲しい」というその姿もまた、わたしへのご催促かもしれない。グズグズ、長綱を引いている時ではない。

  とにかく有り難いご縁でした。

 

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