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不要不急

 大型台風が急転回して日本列島に接近する。連休中の不要不急の外出を控えるようにという注意喚起が続いている。

 「壮年の集い」の開催前から心配したが、中止にする選択肢はまったくなかった。壮年の集いの真っ最中に近畿に上陸する予報で、列車の運休などで参加できない人もいるだろうとは思った。でも、これもまたよくあることだが、ノロノロとスピードが遅くなって、結局、法座中、直接の影響はなかった。

 直接の影響はなかったが、2日目の午前で、西日本の人を中心に早めに帰宅されることになった。九州、四国、中国は、山口や広島の山陽の方もあれば、鳥取の山陰の方もおられたのだが、その方々が今回の幹事だったからだ。

 もっともあとは大人の皆さん、各自の判断である。昨今の世間の流れからはズレているが、この世のことはなんとかなるだろうという思いがあるからだ。特急が運休なら在来線でもいいだろうし、たとえ列車や高速バスが動かなくなっても、もう1泊ここに泊まればよいだけのこと。実際、高知の方はもう1泊されて、翌日の教行寺法座もご一緒することになった。流れでさらにもう1泊(都合2泊)されることになって帰宅された方もあった。

 それでも昔に比べると、世間には近づいてきた。早く切り上げるべきかの相談をしていたら、古株の四国の同人が、「昔の華光なら考えられませんね。こんな時でも、今生事で帰るのかという雰囲気があって、ぼくも2度ほど列車の中で泊まったことありますよ」と言われていた。まあ、その感じはぼくもよく分かって、なんとなくまだ腹の底にある感情だ。

 でも世間の常識でいうのなら、仏法のことなど不要不急の最たるものだ。皆さんにとっては別に仕事でもない。お金もうけにもならず、命や健康にかかることでもない。別に義理があるわけでもない。たとえ聞法しなくても今生の生活の上には、まったく差し障りはない。むしろ聞法が、仕事や家庭の邪魔になることだってある。現実、それを理由にこない人もいるてはないか。中には、気分で聞法したり、しなかったりする人もいるしね。

 しかし、法の立場に立つならば、仏法は「後生の一大事」の解決にほかならない。
 もし人生においてたったひとつ急ぐものがあるとするならば、それは南無阿弥陀仏を聞くこと。
 もし人生に重要な、たったひとつの大切なものがあるのなら、それは南無阿弥陀仏を聞くこと。

 それこそが緊急で、一番重要な一大事なのである。ところが、私の現実、今生事の腹底の心とは、まったく正反対なのである。実は、そこを聞かせていただく、うちのめられるほどのそのギャップを痛感させられることは、聞法の上では大切なことであるように思えるのだ。 

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