第10回 広島「真宗カウンセリングWS」
8月末のことだが、感想文を書いたので、ここにも一部アップする。なかなかすぐにブログが書けないのが、最近の悩みだ。
第10回を迎えた広島真宗カウンセリングWS。広島の真宗カウンセリング学習会も15周年の節目だったそうだ。種まきをされたS先生が最後まで心を砕かれ、バトンを受け継がれたM先生が育てられた真宗カウンセリングが、今、広島の地に息づいていることが力強く思えた。そこに、小生も参画させていただけていることも、とても有り難く感謝している。
真宗カウンセリングの学びは、単なる知的学習(研究)だけではない。体験として研修し、さらに各人の実践(お寺や地域の活動、家庭問題)がなされ、その課題が再びた研修で語られ、共有されることで深められていくプロセスである。その意味では、頭の理解に、体験的な学びが加わり、それが身のレベルにまで深められて、生き方にも影響を及ぼしていくのであるから、表層的な薄っぺらいものでは決してない。
広島では、その学びが僧侶中心ではなく、一般方や主婦も加わり、僧俗一体となって進んでいることに深く感銘を受けた。ともすれば、リーダー役の講師や僧侶・住職の存在が目立って、他のメンバーは追従することが多いのではないか。しかしそれでは、真の御同行・御同朋の体現をめざす真宗カウンセリングの精神とはかけ離れ、深まりや拡がりのないままで終わってしまう。ワークショップの休憩時間のことだったが、広島のメンバーが、次回の例会の相談されおられた。それが、僧俗・男女・老若の別なく、誰もが対等に意見交換されていた。その繰り広げられている風景だけでも、真宗カウンセリングがこの地に根付いていることを実感させられたのである。
それにしても今回のワークショップの内容は、10周年に相応しいものとなった。今回は、前年の参加者が全員(9名に世話人2名の11名)が、遠近各地より再び揃ったこと。これはたいへん稀なことである。そこにこれまでの参加者やカウンセリング経験の豊かな初参加者が加わって、さらに厚みを増したワークあった。顔ぶりをみて、より深みのあるグループになればと願っていたが、それぞれが他のメンバーとの関わりややりとりを通じて、自分の問題と向き合い、その気づきを表明し、またそれが次のテーマを生み出していき、グループ全体も深まっていくという、たいへん有機的なつながりのあったワークになったのではないだろうか。
ほんとうはひとりひとりの出会いのところにも触れていきたいのだが、いま割愛をさせていただく。
ぼくのところではずっとこころに残っていたテーマがあった。ひとつは「本願とは何か」。自分のところ、つまりより自分の体験過程に引き寄せたところで、ほんとうにびったりする一言はないかを、探す3日間だったような気がする。
そしてもうひとつは、「もし念仏のみまことならば、カウンセリングは方便なのか」という問いである。そのこともいろいろと味わった。
結論からいうと、ある意味ではそうだあるし、ある意味では絶対に違う。そして、ぼくの中(あくまでも主観的、主体的な出会いではあるが)では、念仏もカウンセリングも分かち合うことはできず、両者は出会い、そして統合されているといっていい。その意味では、この問いは意味をなさなくなっている。これがカウンセリングで、ここからが真宗という境がなくなっているからである。
そのあたりはもっとじっくりと皆さんと分かち合い、語り合いたかったが、まったく時間がなくて残念だった。
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