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打てば響く法~高山法座でのご示談~

 高山法座には、愛知や富山からのお参りがあったが、富山組の皆さんは、高山支部は初参加の方だった。

 ご高齢の男性は一度だけ金沢の法座でお会いしてことがある。四国八十八カ所巡りした話や、地域の社会貢献が善になるかなど、的外れの質問もされていた。まだ少し遠いなーの思いで接してたが、話題にも付き合いながらも、真宗の立場を丁寧にお話し申し上げていった。

 そのうち、宿善や三願転入などへの疑問もされる。最初は焦点がぼやけていたのに、だんだんと絞られてくるようになってきた。前回の後、「念仏の雄叫び」を何度も読んで、わかりやすくかからたことに関心してがらも、実践することの難しさも語ってくださる。そして、「(自力でも)お念仏を称えることは善いことですか」と質問された。
 
 いうまでもないが、阿弥陀様のお命そのものの「南無阿弥陀仏」を申すことに、善いも悪いもない。如来さまの側に立てば、この世の相対的な善悪を超えた、最高の善である。しかし、それを私の「善し悪し」のものさしがはかるこそが、大問題なのである。もし善で役に立つなら称えようという根性自体が、本願の嘉号をおのれの善根にしよう、信心獲得のための道具にしようという浅ましい自力の計らいこころにほかならない。もし聞くのなら、こんな問い発している私自身のうぬぼれ心、誤りを聞かせていただくしかないのだ。 

 その後、高山の皆さんがあの手、この手でお勧めくださる。しかし誰も強要も、押しつけもない。ぼくも、まだ遠いだろうという気持ちでやりとりを聞かせていただいていたが、そのうち、誰かが「今、ここで聞かせてもらいない」と促されだした。すると、不意に、まなざしが変わったかと思うと、そのうながしに間髪いれず、「どうかお聞かせください」と手合わせ、頭をさげられただ。父と同じ大正14年生れで、90歳を過ぎておられる老爺だ。

 一瞬で、空気が張りつめた。その姿にこころ撃たれた。これまでのような遠回りではなく、単刀直入に、阿弥陀様の他力廻向のおこころをお話し申し上げる。それが、不思議なことに、無理なく、スースーと届いていく。たまたま休憩場だったので、隣室の仏間に移ることになった。

 阿弥陀様の前に座られると、悪い足でもなんとか正坐されようとする。回りは無理をしないようにいうと、「このままなら勿体ないです」と、足を折ってより正坐に近い格好で座られる。そして頭を垂れて合掌念仏され続けられている。終了時間が来て、そのまま恩徳讃を唱和したが、それでまだひとりお念仏されていた。痛い足を曲げ、一心にお念仏される老爺の後ろ姿が、尊かった。最後は、皆さんの方に向い、「一緒にお念仏の助力をくださりありがとうございました。皆様に助けていただいたおかげで、私もお念仏申すことができました」と、また深々と頭をさげられた。

 Kさんから、「南無阿弥陀仏と称えたら、「南無阿弥陀仏、○○よ、必ず救うぞ」「南無阿弥陀仏、○○よ、必ず救うぞ」と申してみてください」という提案があったので、向けてみると、これまた間髪いれずに、「南無阿弥陀仏、○○よ、必ず救うぞ。○○よ、必ず救うぞ」と、すぐに実践されていくのである。

 最初は、まだまだ遠いと決めつけていたのだが、一瞬で、空気は変わった。そして、法が届くときは、何の無理もなく、強要もなくても、スッ、スッと、しみ入るように届いていく。打てば響くのだ。そこに躊躇も、遠慮も、計らいもい。聞こえたまま、動いていかれていく。水が高いところから低いところに流れるのが道理であるように、ご法が届くということも、凡夫の計らいを超えた道理なのである。最後の最後に、その不思議さ、尊さを味わった。

 

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