仏教大学の先生による『選択集』の講読に出る。断片的には頂いても、最初から最後までしっかりと読んだことはないので、絶好のチャンス。しかも、本家の浄土宗の立場からの購読である。昨年からの継続講義だったようで、一番の根本義である第1章の二門章、第2章二行章、第3章の本頑章が、すでに終わっていたのは、至極残念。
今回は、第5章の「念仏利益の文」で、改めて学ばせていただきました。
ここは『無量寿経』流通分などに依って、念仏の利益を挙げる章で、念仏の一念(一声)に無上の利益があることを明かす文。また、16章に示される八選択においては、二番目の「選択讃嘆」で、釈尊が流通分において念仏を一念無上功徳と選択したことを顕している。
その全文を明かすと以下の通りになる。
◎引用段は、『無量寿経』流通分と、善導の『往生礼讃』
『無量寿経』の下にのたまはく、「仏、弥勒に語りたまはく、それかの仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜踊躍して乃至一念せん。まさに知るべし、この人は大利を得となす。すなはちこれ無上の功徳を具足す」と。
善導の『礼讃』にいはく、「それかの弥陀仏の名号を聞くことを得ることありて、 歓喜して一念を至すもの、みなまさにかしこに生ずることを得べし」と。
◎私釈段では、「なぜ第4章の三輩段などでは菩提心などの功徳があげられているのに、念仏以外は褒めず、念仏だけを褒めたたえるのか」を問答をもって示されている。
(問) 私に問ひていはく、上の三輩の文に准ずるに、念仏のほかに菩提心等の功徳を挙ぐ。なんぞかれらの功徳を歎めずして、ただ独り念仏の功徳を讃むるや。
(答) 答へていはく、聖意測りがたし。定んで深意あらん。しばらく善導の一意によりてしかもこれをいはば、原ぬるにそれ仏意は、正直にただ念仏の行を説かんと欲すといへども、機に随ひて一往、菩提心等の諸行を説きて、三輩の浅深不同を分別す。しかるをいま諸行において はすでに捨てて歎めたまはず。置きて論ずべからざるものなり。ただ念仏の一行につきてすでに選びて讃歎す。思ひて分別すべきものなり。
◎念仏の三輩について(もし念仏に関して三輩を区別にすると(1)観念の浅深(2)念仏の多少よる二つの意で区別がある。
もし念仏に約して三輩を分別せば、これに二の意あり。一には観念の浅深に随ひてこれを分別す。二には念仏の多少をもつてこれを分別す。
(浅・深) 浅深は上に引くところのごとし。「もし説のごとく行ぜば、理上上に当れり」(往生要 集・下)と、これなり。
(多・少) 次に多少は、下輩の文のなかにすでに十念乃至一 念の数あり。上・中の両輩、これに准じて随ひて増すべし。『観念法門』にいはく、「日別に念仏一万遍、またすべからく時によりて浄土の荘厳を 礼讃すべし。はなはだ精進すべし。あるいは三万・六万・十万を得るものは、みなこれ上品上生の人なり」と。まさに知るべし、三万以上はこれ上品上生の業、三万以去は上品以下の業なり。すでに念数の多少に随ひて品位を分別することこれ明らけし。
◎一念について(今この一念は、願成就文と、下輩のものを指している)
いまこの「一念」といふは、これ上の念仏の願成就(第十八願成就文)の中にいふところの一念と、下輩の中に明かすところの一念とを指す。
◎大利について(願成就文でも下輩でも語られなかったが、流通分において、念仏を大利として讃嘆し、無上と褒めている)
願成就の文の中に一念といふといへども、いまだ功徳の大利を説かず。また下輩の文のなかに一念といふといへども、また功徳の大利を説かず。この〔流通分の〕一念に至りて、説きて大利となし、歎めて無上となす。まさに知るべし、これ上の一念を指す。この「大利」とはこれ小利に対する言なり。しかればすなはち菩提心等の諸行をもつて小利となし、乃至一念をもつて大利となす。また「無上の功徳とはこれ有上に対する言なり。余行をもつて有上となし、念仏をもつて無上となす。すでに一念をもつて一無上となす。まさに知るべし、十念をもつて十無上となし、また百念をもつて百無上となし、また千念をもつて千無上となす。かくのごとく展転して少より多に至る。念仏恒沙なれば、無上の功徳また恒沙なるべし。かくのごとく知るべし。
しかればもろもろの往生を願求せん人、なんぞ無上大利の念仏を廃して、あながちに有上小利の余行を修せんや。
ちなみに現代意訳では、「それかの仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜踊躍して乃至一念せん」の箇所を、「阿弥陀仏の名号を聞くことができ、感激して自身も一念するならば…」と訳されていた。「歓喜踊躍」が「感激して」となると、どうも軽い感じがしたのは、ぼくだけだろうかなー。