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2017年8月の16件の記事

サルの行方

 京都市内でサルが出没している。最初、発見されたのは二条城、そして西本願寺。それが梅小路公園と続いて、近所の住宅街で捕り物があった。ニュース映像で、梅小路公園近辺の見慣れた住宅街が映し出されて、びっくりした。

 午後から梅小路公園に近い七条大宮のヘアーサロンへ。カットしてもらいなから、なんとなくこのサルの話題をだしたら、「実は、早朝、公園をジョギング中にサルと遭遇しんです。観光客も多いエリアだったので、ちょっと迷ったけど110番したんですよ」とのこと。えー、あなたが、このあたりの最初の目撃者だったのですか。まもなくして区役所の広報車が、窓を締めたり、不用意に刺激しないことなどの注意喚起があったという。

 そしてすぐに発見されて、大捕り物となったのだが、敵もサルもので捕まらず、いまも行方も分からなくなっている。それにしても、かわいそうなのはサルの方だ。こんな市街地に出てきて、何もしていないのに、みんなに追いかけられる羽目になったのだから、たまらない。しかもサル1匹が出てだけで、全国ネットのニュースになるのも、びっくりだ。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170823/k10011108771000.html

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カウンセリグを学ぶ浄土真宗

 来週は、広島真宗カウンセリグWSである。

 今回は定員になっている。広島だけでなく、東京、奈良、福岡、大分からの参加者もある。ほとんどがリピーターで、10回連続の方もある。僧侶の方も半数あれば、華光同人も半数ぐらいおられる。皆さん、経験豊かな方ばかりで、ずいぶん楽しみである。

 ところで、真宗カウンセリグWSは、真宗カウンセリグ研究会の主催であるが、広島の真宗カウンセリグの学習会である、みみずくの会との共催である。そのみみずくの会の紹介記事が、中国新聞の宗教欄(洗心)に掲載された。PDFで送ってくださったので、皆様にもおすそ分け。

 登場している3名の方が今回もお世話くださる方々。それにしても好意的な文章である。

「DOC170821-20170821122505.pdf」

(回転させて読んでね)

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打てば響く法~高山法座でのご示談~

 高山法座には、愛知や富山からのお参りがあったが、富山組の皆さんは、高山支部は初参加の方だった。

 ご高齢の男性は一度だけ金沢の法座でお会いしてことがある。四国八十八カ所巡りした話や、地域の社会貢献が善になるかなど、的外れの質問もされていた。まだ少し遠いなーの思いで接してたが、話題にも付き合いながらも、真宗の立場を丁寧にお話し申し上げていった。

 そのうち、宿善や三願転入などへの疑問もされる。最初は焦点がぼやけていたのに、だんだんと絞られてくるようになってきた。前回の後、「念仏の雄叫び」を何度も読んで、わかりやすくかからたことに関心してがらも、実践することの難しさも語ってくださる。そして、「(自力でも)お念仏を称えることは善いことですか」と質問された。
 
 いうまでもないが、阿弥陀様のお命そのものの「南無阿弥陀仏」を申すことに、善いも悪いもない。如来さまの側に立てば、この世の相対的な善悪を超えた、最高の善である。しかし、それを私の「善し悪し」のものさしがはかるこそが、大問題なのである。もし善で役に立つなら称えようという根性自体が、本願の嘉号をおのれの善根にしよう、信心獲得のための道具にしようという浅ましい自力の計らいこころにほかならない。もし聞くのなら、こんな問い発している私自身のうぬぼれ心、誤りを聞かせていただくしかないのだ。 

 その後、高山の皆さんがあの手、この手でお勧めくださる。しかし誰も強要も、押しつけもない。ぼくも、まだ遠いだろうという気持ちでやりとりを聞かせていただいていたが、そのうち、誰かが「今、ここで聞かせてもらいない」と促されだした。すると、不意に、まなざしが変わったかと思うと、そのうながしに間髪いれず、「どうかお聞かせください」と手合わせ、頭をさげられただ。父と同じ大正14年生れで、90歳を過ぎておられる老爺だ。

 一瞬で、空気が張りつめた。その姿にこころ撃たれた。これまでのような遠回りではなく、単刀直入に、阿弥陀様の他力廻向のおこころをお話し申し上げる。それが、不思議なことに、無理なく、スースーと届いていく。たまたま休憩場だったので、隣室の仏間に移ることになった。

 阿弥陀様の前に座られると、悪い足でもなんとか正坐されようとする。回りは無理をしないようにいうと、「このままなら勿体ないです」と、足を折ってより正坐に近い格好で座られる。そして頭を垂れて合掌念仏され続けられている。終了時間が来て、そのまま恩徳讃を唱和したが、それでまだひとりお念仏されていた。痛い足を曲げ、一心にお念仏される老爺の後ろ姿が、尊かった。最後は、皆さんの方に向い、「一緒にお念仏の助力をくださりありがとうございました。皆様に助けていただいたおかげで、私もお念仏申すことができました」と、また深々と頭をさげられた。

 Kさんから、「南無阿弥陀仏と称えたら、「南無阿弥陀仏、○○よ、必ず救うぞ」「南無阿弥陀仏、○○よ、必ず救うぞ」と申してみてください」という提案があったので、向けてみると、これまた間髪いれずに、「南無阿弥陀仏、○○よ、必ず救うぞ。○○よ、必ず救うぞ」と、すぐに実践されていくのである。

 最初は、まだまだ遠いと決めつけていたのだが、一瞬で、空気は変わった。そして、法が届くときは、何の無理もなく、強要もなくても、スッ、スッと、しみ入るように届いていく。打てば響くのだ。そこに躊躇も、遠慮も、計らいもい。聞こえたまま、動いていかれていく。水が高いところから低いところに流れるのが道理であるように、ご法が届くということも、凡夫の計らいを超えた道理なのである。最後の最後に、その不思議さ、尊さを味わった。

 

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新鮮だった高山支部法座

Img_3129 今回の高山支部法座は新鮮だった。

  通常、国府町のF家が会場で、たまにH家の豪邸の時もあったが、Img_3154_2これ以外の同人宅が会所になることはなかった。今回は、初めての同人宅が会場となる。少し早く到着したので、家の回りを散策する。高山を代表する古い街並み近く、家の前を宮川の清Img_3143流が流れているが、鯉もたくさん泳いでいた。秋の高山祭の桜山八幡宮の鳥居も見えている。今は、夏の花と、秋の花が同居するImg_3140季節のようだ。朝はアサガオだが、アジサイがまだ咲いているかと思えば、コスモスも咲いていた。

 さてSさんのご自宅は別にあるが、ここは少し前まで娘さん家族が住んでおられ、今は空Img_3178き家になっている。立派な仏壇があり、二間続きの和室は法座会場にちょうどいい広さ。隣には食事や懇親Img_3180会の場所もある。

 初めてお世話くださるSさんも、支部長さImg_3168んも頑張ってくださった。といっても、ぼくが見えるのは法座中の姿だけ。法座を迎えるに当たっては、会場設営の準備があるのだ。空き家の掃除に始まり、お茶やお菓子の準備、座布団や黒板(これが立派)、駐車場の確保、昼の弁当もいつもとは違っImg_3163た。玄関には手作りの案内ポスターが貼られている。目に見えないところでの準備がImg_3182整って、今日の法座があった。

 会所が異なると、初日の夕食も懇親会も、いつもとはまったく違うメンバーだった。何十回も高山でお世話になっているが、Sさんとは初めて食事をし、お酒も飲んだのImg_3184も新鮮で、仏法に出会うまでの経緯や人生について聞かせてもらえた。

Img_3155_2 そしてなによりも、近所の方や中学生のお孫さんと、初めての方が5名もお参りくださったのも、家庭法座なら。急遽、初参加の方ように、法話も一部変更する。お盆参りを終えたところだったので、仏壇の前に座れば、ただ合掌するのではなく、手を合わせて口に出して「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏申すことの意味を一からお話した。南無阿弥陀仏とは、阿弥陀様の尊い御名であり、私が称えるのImg_3151_2であるが、それは先手で親が私を呼ぶ「呼び声」である。その阿弥陀様のお心を聞かせていただくことが肝要だという話である。いままで聞いたことがなかったとか、仏壇に手を合わせるが、声に出してお念仏をしたことはなかったとか、その意味を初めて聞いただと、皆さんの反応はよかったように思う。とりあえずは今夜1座だけのご縁。それでもお育てがないと一足飛びにはいかないけれど、気長に。

 
 

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大文字送り火

Img_3109  夜8時すぎに、母のところに行くと、テレビを観ていた。大文字送り火の中継である。すっかり忘れていた。昨年は大雨でうまく点火しなかったが、今年は天気はいい。屋上に上がるが、まだ何も見えない。正確にいうと、大文字の火が燃えている明かりと煙がビルの奥に見えている。五山(六つある)のうち、華光会館からは一番よく見えた如意が岳の「大文字」だったが、このビルが立ってから見えなくなった。
 
Img_3117 次ぎの点火まではまだ時間あるので、3階に戻って夕食を食べながらテレビで鑑賞。20分ぼどしてからまた屋上へ。隣のビルが立ってから船形が見えなくなり、いつの真にか鳥居型も左が欠けるようになり、今では、はっきり見えるのは「左大文字」だけになった。
 
 翌日、自力整体に行くと、「昨晩は皆さん大文字をご覧になられましたか。私はテレビで鑑賞しました」と先生が言われた。、他にImg_3121も「テレビの方がよく見えますね。鳥居型たけ赤色だと解説で聞きました」とか仰っていた。

 まあその意味で、ぼくはテレビと実物との折衷派。ただ長らく外には観に行っていない。

 二つだけしか見えなかったが、お盆の終わりだけでなく、夏の終わりも告げる風情ある宗教行事。

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『標的の島~風(かじ)かたか』

  以前、お東の九条の会で講演を聞いた三上知恵監督作品。『標的の島~風かたか~』は、高い評価を獲ている『標的の村』(キネマ旬報ベストテン文化映画第1位)『戦場ぬ止め』(キネマ旬報ベストテン文化映画第2位)に続く第三弾だ。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-c015.html

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-0014.html

 170615鑑賞中も、鑑賞後も、なんとも言えぬやり場のない感情が沸き上がってくる。悲しみのようでもあり、怒りのようでもあり、絶望的な無力感でもあるのだか、そのものではなく、なんとも形容し難い痛みに襲われる。
 あまりにも理不尽なのである。でも、その一端を造っているのは、まぎれなくいまの私達であることも事実だ。民主主義とは何か。正義とは何か。そして、ほんとうの軍隊は誰が、誰を護るのか。標的の島とは、沖縄のことかと思っていたら、そうではない事実に驚愕するしかない。

 『ハクソーリッジ』が72年前の沖縄での日米戦争であったなら、それは今もまた形を変え日米の正義の名のもとでの理不尽が沖縄の人達を苦しめているという「事実」に目を背向けてはならない。

 詳細のストーリーは、なんらかの機会でぜひご覧いただきたいのでここでは触れない。ただ声だかな反戦映画ではなく、沖縄の豊かな文化や風習も随所に現れ、どこか未来への希望もある映画だった。最後に、このタイトルの~風(かじ)かたか~ということについてだけ監督の言葉から触れておこう。

 2016年6月19日、過去最も悲しい県民大会が那覇で開かれた。炎天下の競技場を覆い尽くした6万5千人は、悔しさと自責の念で内面からも自分を焼くような痛みに耐えていた。二十歳の女性がジョギング中に元海兵隊の男に後ろから殴られ、暴行の末、棄てられた。数えきれない米兵の凶悪犯罪。こんな惨事は最後にしたいと1995年、少女暴行事件で沖縄県民は立ち上がったはずだった。あれから21年。そのころ生れた子を私たちは守ってやれなかった。

  大会冒頭に古謝美佐子さがの「童神」が歌われる。(略) 被害者の出身地の市長である稲嶺進さんが歌の後にこう語った。「今の歌に『風(かじ)かたか』という言葉がありました。私たちはまた一つ命を守る風除け-『風(かじ)かたか』になれなかった」。とう言って泣いた。会場の女性たちも号泣した。

 できることなら、世間の強い雨風から我が子を守ってもりたいというのが親心。でも、どうやったら日米両政府が沖縄に課す残酷な暴風雨の防波堤になれるというのか。勝算はなくても、沖縄県民は辺野古・高江で基地建設を勧めるトラックの前に立ちはだかる。沖縄の人々は、未来の子供たちの防波堤になろうとする。

 一方で日本という国も今また、沖縄を防波堤にして安心を得ようとしている。中国の脅威を喧伝しなが自衛隊のミサイル部隊を石垣・宮古、沖縄本島、奄美に配備し、南西諸島を軍事要塞化する計画だ。その目的は南西諸島の海峡封鎖だ。だが、実はそれはアメリカの極東戦略の一貫であり、日本の国土もアメリカにとっては中国の拡大を封じ込める防波堤とみなされている。

 この映画はそれら三つの「風かたか」=防波堤を巡る物語である。

 (公式パンフレットの「ディレクター・ノート」より)

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『ハクソーリッジ』

 『ハクソーリッジ』は、二重、三重の意味で知らないことばかりだった。

 まず、映画タイトルを聞いても意味不明。こんな時は邦題になるのだろうが、わざわざ原題のままだ。ハクソー(hacksaw)とはノコリギのこと、リッジ(ridge)は崖。第二次世界大戦の沖縄での激戦地で、断崖絶壁がノコギリの歯のように険しく、多くの死者を出したことから、アメリカ軍がこう呼んだというのだ。1945年4月1日、沖縄本島に上陸したアメリカ軍は、首里(那覇市)を目指して進軍。首里の北方3キロの防衛戦の一つが、150mの断崖で日本名「前田高地」と言われるのこの場所だった。日本軍はこの地に縦横の地下壕をめぐらし、米軍を迎え撃った。狙撃だけでなく、手榴弾、銃剣、さらに刃物での特攻精神での肉弾線で対抗。20日間の激闘が繰り広げられ双方に多大な被害がでる。が、どんなに善戦しても、補給路を断たれて孤立していては、圧倒的なアメリカ軍の武力の前に敗退しかない。ほどなく首里も陥落し、6月23日(沖縄での「慰霊の日」)に、沖縄での組織的防衛を終えることになるのだ。

 沖縄の地上戦が激戦地のひとつが前田高地で、このような白兵戦が繰り広げられていたことは、まったく知らなかった。それにしても戦闘シーンの描写は目を背向けたくなるほど迫力だった。火炎放射器で焼き殺される日本兵、特攻精神での切り込んでの肉弾線。至近距離の銃撃、血が飛び交い、腕や足や頭切れた死体が転がる生々しい戦闘シーンが繰り返されていく。

そんな激戦の中で、ひとりの「臆病者」と虐げられて、武器を持つことを拒絶した男が、多くの命を救うことになる史実に基づく映画だ。主人公は、元第一次大戦時に軍人だった父親との複雑な関係もあり、宗教的理由から「良心的徴兵拒否」を認められる。しかし、兵器を持ち殺害することには反対だが、愛国心はあり、なんとか国に貢献したいと、銃後ではなく、志願して従軍する。その意味では「良心的徴兵拒否」ではないのだが、訓練においてでも、銃さえ握らない男は、軍隊では邪魔者、お荷物以外ではない。さまざまな嫌がらせで自主的な除隊を促されるも、それも拒否。そして、最前線、もっもと激戦区のひとつに、衛生兵として送られるのである。そこで武器ひとつもたいない男が、75名もの人々の命を救い、最後は、大統領自らが名誉勲章を授与するという活躍をするのである。

 戦場描写も生々しかったが、その家庭的背景、家族(特に父親と母親)との関係や、連れ合いとの出会いなどの人間ドラマ秀逸だった。そしてなによりも彼の行動が人間を超えた神の啓示によるものであるという表現は、イエスキリストを描いた『パッション』を撮ったメル・ギブソンらしいと感じた。

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M家のお盆法座~陰徳のおかげ~

 M家のお盆法座。8月のお盆と、12月23日(今年は24日)の誕生日法座の2回、家庭法座を開いてくださる。

 昭和18年8月に、50代半ばで往生されたお祖母さんことが話題になった。たびたび聞かせて頂いている話だが、過去帳を前にすると、また違った意味で新鮮に聞こえてきた。

 大正年間、北陸の村がダムに沈み、朝鮮半島か、北海道開拓の選択があったが、朝鮮半島で小作農として夫婦で頑張り続ける道を選ばれた。20年以上も働き続けて、小さいながらも自分の田んぼをもてるようになったが、無理がたたって病気となった。出産後も養生もせず、翌日には田んぼで重労働をされた。いのちが長くないと知ると、自分のやらねばならないことは仏法聴聞だと、一大事を心にかけ、夫も土地も残し、まったく縁もゆかりもない京都七条の地へ。ご本山が近くにあるからだ。貧しい長屋住まいをしながら、総会所(聴聞場)での聴聞生活を送られたという。その聴聞が縁で、法の篤い家からお嫁さんをもらわれた。Mさんのお母さんだ。まだ戦前のことで、結婚式の後、地髪で結った文金高島田を降ろすやいなや、「うちの嫁の一番の仕事は、仏法聴聞です」と、そのまま総会所参りが始まったというのだ。そして、昭和18年、50代半ばで亡くなっていかれたのだ。その2年後、終戦。その夫(祖父)も、せっかく朝鮮半島で手に入れたと土地もすべてを失い、命からがら、息子を頼って京都に来たという。高齢だったが、お東の総会所の下男をしながら貧しい生活を送られたという。しかし、土地を失ったことも一切愚痴ることなく、ご聴聞され続けたというのだ。そのご法は、息子夫婦に受け継がれて、孫のMさんへと連なっていくのである。

 子供のころのMさんは、貧しい暮らしでずいぶん苦労をされている。そのことを恨みに思った話をよくされている。仏法も嫌っておられて、真反対の活動もされていたという。しかし、子孫に美田は残されなかったが、ご法という宝を残してくださっていたことが、華開くことになる。孫さんであるMさんは祖父母の顔は知らない。しかし先祖がいのちをがけで聴聞し、そのご法を相続され、また陰徳を積んでくださったおかげで、この地で毎年のように家庭法座が開かれるようになったのである。新築される時、家庭法座が開けるようにと仏間の部屋が二部屋続くように工夫されたという。

 仏縁のあるところは、釈尊のいのちが捨ててあるのだ。

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お盆の思い出

Img_3101華光会館でのお盆のお参り。
予定していた家族が急にキャンセルで、うちの家族とTさんだけ。例年は盆休み中のTさんは、会館でのお盆は初めてだという。

勤行を覚えたのも、「正信偈」よりもお盆の「阿弥陀経」が先だった。
初めてご示談を受けたのも、小学校5年生のお盆の時。父は、その日の予定を取りやめている。
その後、父に付いてお盆参りもした。中学生になると2軒のお家だけひとりでお参りもした。子供だったので可愛がってくださった。お勤めを終え、他のお参りに回ってから迎えにくる父を待って、茶の間でジュースを出してもらって、テレビをみせてもらっていた。2軒のお宅とも、引っ越しされて、何十年も前に音信不通だ。
華光会館での盆参は、脇について、ずっと節柝を担当した。導師をするようになったのは、亡くなる3年前のことだ。
そして、父は、襦袢が肌につかないようにと、籐製の(つまり木だ)下着(?)を着るのが夏の風物詩だった。それでも大汗をかいて帰ってきた。これは晩年になっても、同じ光景。でもこの習慣は継承していないが、同じように盆参りは続けている。

なぜか、お盆は、母は一つもなく、父との思い出が詰まっている。

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お盆参り

Img_3090 11日、今年もお盆のお参りが始まった。山の日として祝日になってから、この日がスタート。
 
 午前中は、南の方面。伏見や宇治を回り、午後からは鴨川沿いから鞍馬街道を北進する。山手の緑の多い地区だ。同じ方面の方が、同じ日になればいいのだが、なかなかImg_3099うまくいかず、あと3回、宇治や伏見方面に出向くことになった。13日は、M家のお盆と京都支部を兼ねた家庭法座だ。

Img_3094 1年に1度だけにお会いするうちもあるが、皆さん、快くお迎えくださる。例によって、『阿弥陀経』を勤行し、弥陀経和讃と、「往覲偈」のいわImg_3091_2ゆる破獄の文をいただく。長年のおつきあいのお家では、皆さん、一緒に大きな声で勤行くださる。しかし、称名念仏になると、合掌はされても声はほとんど聞こえて来ない。これは毎年の課題。勤行をしてただくまででも、何年もかかった。現に新しいご縁の方は目で聖典の文字を追いかけるので精一杯だ。お念仏は、「南無阿弥陀仏」のおいわれを話せば、なんとなく声がでるが、なかなか身にはつかない。1年の1度、小一時間のご縁ではなかなか難しい。

ところが、この話題を耳にされたFさんが、ぼくが「では、お念仏申しましょう」と勧めた後で、「声に出してお念仏してくださいね」と念押し、皆さんにお勧めくださった。すると、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」という大きな声が出る。そして、「家でお参りする時は、お念仏申してます。お坊様の邪魔をしてはいけないと思ってました」とのお答えが返ってきた。慣れていないというより、忖度があったんですね。普通は、法事の時にお坊さんのお経を邪魔しないように黙って聞いているのが、大半だ。でもそれは檀家さんの責任ではなく、長年の僧侶側の怠慢にほかならない。どうしても安易な方、楽な方に流れていくものね。法話の内容のしても同じこと。自戒を込めて教訓に。
 

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台風一過の海水浴

Img_3085 昨年に続いて、敦賀の海に出かける。風光明媚な気比の松原である。

 3日前に台風が来てから猛暑になるも、天気は不安定なまま。午前中Img_3084_2はパラパラと雨も降る。午後、海に到着したころから晴れ間ものぞいてくる。思いの外、海水浴場は空いていた。台風5号の影響が大きい。福井県嶺南地方は記録的な大雨で、土砂崩れがImg_3073発生し、敦賀市内の笙の川も氾濫の危機で、海には大量の葦や木切れが流れ着き、海面も乳白色で濁っている。この浜では大型遊具も大破してしまったという。他にもビンやペットボトルなども漂流している。足元も危なく、海に入るのを躊躇するほどだ。それでも、せっかく海にきたのだからと、流木拾いをしつつ、冷たい海へ。Img_3076夕方には浜に打ち上げられて漂流物も少なくなってきたが、きれいな海は連休中になるのだろう。

 帰路は、早くも帰省ラッシュに巻き込まれた。八日市を過ぎたころから、断続的に渋滞が続いImg_3088て、一時は40キロ渋滞の標示が、、、。明日が帰省のピークと思っていたが、渋滞をさせて、皆さん一足早く出られたのようだ。

 疲れて帰ったが、敦賀でたくさんの新鮮な海鮮類を買い込んで、あとはおいしくいただきました。結局、今日も殺生と飲酒の罪で終わったのでした。 

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森田療法と内観療法

    『選択本願念仏集』に引き続いて、「仏教カウンセリングとビハーラ活動」の講義を受講。先月は、縁起と家族療法の実践(ロールプレイ)だったが、今月は講義が中心。日本が生んだ心理療法で、仏教の影響が色濃い「森田療法と内観療法」について。講義といっても概説的な話ではない。まず禅の影響が色濃い森田療法は、京都の東福寺の前にあった三聖病院(残念ながら今はない)で行われていた森田療法の実際についての院長の話から。また浄土真宗の身調べ(信心獲得のための機を問う罪悪観)がルーツの内観は、講師の奈倉先生が9日間、実践された内観療法の体験談で、極めて実践的な内容だった。医者として、また大学教授の身でありながら、地位を度外して、実際に体験され、また自分内面の弱さまで赤裸々にお話くださる姿は、尊く思えた。

 内観は、ひとりで真剣に自己と向き合う面もあるが、実は、自分のひとりでは自分は知れない。自分と他者との関係。一番の関係深いのが、母親との関係、父親との関係であり、その関係性の善し・悪しに関わらず、私と両親と関係性が、私の対人的関係の基盤になっているのはいうまでもない。「人」ではなく「人間」という言葉が示すように、関係の中でしか真の自己に目覚めていくことはできないというのである。

 そう考えると、ほんとうの自己に目覚めるとは、人間関係を超えた阿弥陀様の働きかけ(関係性)に気付く以外には知られないということにもなる。常に、無量のいのち(ひかり)から、一方的に私へ働きかけられている。その私にかけられる無量のいのちのはたらき、その根源に目覚めさせていただくことが、真の自己を知り、阿弥陀さまと出遇うことだといえよう。 

 二人組での内観実践を計画されていたが、十分な配慮や関係がないと問題も起るので、日時を改め、少人数での実践が行うことになった。

 

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『選択本願念仏集』~念仏利益の文~

仏教大学の先生による『選択集』の講読に出る。断片的には頂いても、最初から最後までしっかりと読んだことはないので、絶好のチャンス。しかも、本家の浄土宗の立場からの購読である。昨年からの継続講義だったようで、一番の根本義である第1章の二門章、第2章二行章、第3章の本頑章が、すでに終わっていたのは、至極残念。

今回は、第5章の「念仏利益の文」で、改めて学ばせていただきました。

 ここは『無量寿経』流通分などに依って、念仏の利益を挙げる章で、念仏の一念(一声)に無上の利益があることを明かす文。また、16章に示される八選択においては、二番目の「選択讃嘆」で、釈尊が流通分において念仏を一念無上功徳と選択したことを顕している。

 その全文を明かすと以下の通りになる。

◎引用段は、『無量寿経』流通分と、善導の『往生礼讃』

 『無量寿経』の下にのたまはく、「仏、弥勒に語りたまはく、それかの仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜踊躍して乃至一念せん。まさに知るべし、この人は大利を得となす。すなはちこれ無上の功徳を具足す」と。

 善導の『礼讃』にいはく、「それかの弥陀仏の名号を聞くことを得ることありて、 歓喜して一念を至すもの、みなまさにかしこに生ずることを得べし」と。

◎私釈段では、「なぜ第4章の三輩段などでは菩提心などの功徳があげられているのに、念仏以外は褒めず、念仏だけを褒めたたえるのか」を問答をもって示されている。

(問) 私に問ひていはく、上の三輩の文に准ずるに、念仏のほかに菩提心等の功徳を挙ぐ。なんぞかれらの功徳を歎めずして、ただ独り念仏の功徳を讃むるや。

(答) 答へていはく、聖意測りがたし。定んで深意あらん。しばらく善導の一意によりてしかもこれをいはば、原ぬるにそれ仏意は、正直にただ念仏の行を説かんと欲すといへども、機に随ひて一往、菩提心等の諸行を説きて、三輩の浅深不同を分別す。しかるをいま諸行において はすでに捨てて歎めたまはず。置きて論ずべからざるものなり。ただ念仏の一行につきてすでに選びて讃歎す。思ひて分別すべきものなり。

◎念仏の三輩について(もし念仏に関して三輩を区別にすると(1)観念の浅深(2)念仏の多少よる二つの意で区別がある。

 もし念仏に約して三輩を分別せば、これに二の意あり。一には観念の浅深に随ひてこれを分別す。二には念仏の多少をもつてこれを分別す。
 
(浅・深) 浅深は上に引くところのごとし。「もし説のごとく行ぜば、理上上に当れり」(往生要 集・下)と、これなり。

(多・少) 次に多少は、下輩の文のなかにすでに十念乃至一 念の数あり。上・中の両輩、これに准じて随ひて増すべし。『観念法門』にいはく、「日別に念仏一万遍、またすべからく時によりて浄土の荘厳を 礼讃すべし。はなはだ精進すべし。あるいは三万・六万・十万を得るものは、みなこれ上品上生の人なり」と。まさに知るべし、三万以上はこれ上品上生の業、三万以去は上品以下の業なり。すでに念数の多少に随ひて品位を分別することこれ明らけし。

◎一念について(今この一念は、願成就文と、下輩のものを指している)

 いまこの「一念」といふは、これ上の念仏の願成就(第十八願成就文)の中にいふところの一念と、下輩の中に明かすところの一念とを指す。

◎大利について(願成就文でも下輩でも語られなかったが、流通分において、念仏を大利として讃嘆し、無上と褒めている)

 願成就の文の中に一念といふといへども、いまだ功徳の大利を説かず。また下輩の文のなかに一念といふといへども、また功徳の大利を説かず。この〔流通分の〕一念に至りて、説きて大利となし、歎めて無上となす。まさに知るべし、これ上の一念を指す。この「大利」とはこれ小利に対する言なり。しかればすなはち菩提心等の諸行をもつて小利となし、乃至一念をもつて大利となす。また「無上の功徳とはこれ有上に対する言なり。余行をもつて有上となし、念仏をもつて無上となす。すでに一念をもつて一無上となす。まさに知るべし、十念をもつて十無上となし、また百念をもつて百無上となし、また千念をもつて千無上となす。かくのごとく展転して少より多に至る。念仏恒沙なれば、無上の功徳また恒沙なるべし。かくのごとく知るべし。

 しかればもろもろの往生を願求せん人、なんぞ無上大利の念仏を廃して、あながちに有上小利の余行を修せんや。
 
 ちなみに現代意訳では、「それかの仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜踊躍して乃至一念せん」の箇所を、「阿弥陀仏の名号を聞くことができ、感激して自身も一念するならば…」と訳されていた。「歓喜踊躍」が「感激して」となると、どうも軽い感じがしたのは、ぼくだけだろうかなー。
 

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台風の三十三間堂

Img_3055_2 台風5号が接近する。昼過ぎ、聴講中の仏大の四条センターから、午後の講義は中止との連絡。事前申込制ではないのに、わざわざの電話連絡に感銘を受ける。何百人も連絡が必要だろう。

 仏の子供大会に家族で参加されたアメリカのKさんは、午後の予Img_3057定がキャンセルになった。何度か京都に来られているが、東西本願寺以外は拝観されたことはないそうだ。明朝は東京へ移Img_3069動。少しでも京都案内をすることにした。まずは東寺へ。ところが、閉門の時間ではないのに、駐車場が閉まっている。狭い門から車が出できたので、そこから入場するも、台風接近で拝観は終了とのこと。出入りは拝観の帰り用。雨、風ともに強くなっている。庭園拝観のお寺ではずぶ濡れになるだろう。国立京都博物館も休館日だ。ダメもとで、三十Img_3062三間堂に行くと、また拝観中。東寺もここも、台風の中で動き回っているのは、海外からの観光客ばかり。皆さん、英語の解説板を見ながら、熱心に拝観されていた。

 三十三間堂は通称で、正式名は蓮華王院本堂。ときおり激しい風がお堂を叩きつける中で、丈六の千手観音様を中心に、1001体ものの観音様と、その眷属で、鎌倉時代の写実的なリアリティー溢れる国宝の二十八部衆の神々を、ゆっくり拝ませていただいた。二十八部衆は護法の神々で、親鸞様が現世利益和讃で歌われている神様も多い。一番は、那羅延堅固の像。これは48願中26番目にある那羅延身(つまり金剛力士)の体躯を備えさせたいう願文にある。このような力強い神様が多かった中で、鬼子母神だといわれる摩和羅女像の合掌の姿は、信仰の内面の静謐さが伝わるようで秀逸だった。また台風の中で拝ませてもらう、国宝の風神・雷神像も格別。それしても1001体の観音様は圧巻の一言。http://sanjusangendo.jp/

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 傘が壊れるほどの強風中、三十三間堂の境内にある法然聖人の遺跡だけにはお参りした。この「法然塔」は別名「名号石」ともいれ、「土御門天皇」の命により、後白河法皇の十三回忌が営まれた際に、この地で、法然聖人がお弟子と共に「六時礼讃」を勤行し、書写した『浄土三部経』を奉納れたというのである。この碑の存在は知っていたが、施主が「土御門天皇」だっとは知らなかった。この4年後、親鸞聖人が強く怒りを結ばれた相手だったからだ。当初は、法然聖人を慕いながら、結局、興福寺学徒たちの圧力で弾圧する立場になられたということであろうか。 

ここをもつて興福寺の学徒、太上天皇(後鳥羽の院と号す、諱尊成)、今上(土御門の院と号す、諱為仁)、聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもつて姓とす。空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。

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2泊3日の仏の子供大会

   今年も、参加者不足で、2泊3日で短縮開催された仏の子供大会。団体生活や班活動をするためには、ある程度の人数が必要だが、子供の参加者は最低限度。会場も、華光会館で、これで3年連続だ。3泊4日のプログラムを3日間に短縮するので、無理もある。追ハイは中止、水泳後すぐ、昼間の地獄のスライド、夜には、室内ファイヤーでスタンツの準備もある。ご法の上でも、分級座談会が2時間あるのが最終日だけと、消化不良という感じがしてならない。

  ご法の上では、課題も多かった。厳しさという意味では、ずいぶん甘い面もある。また、「生きる喜び」というテーマは、難しいということもあるかもしれない。

 それでも、子供たちはほんとうに楽しそうだった。 先生方も中心になる方は少ないながら、法話に、ゲームに、運営にと3日間、頑張ってくれた。加えて、分級座談会も、高校生グループ、大学生グループも出来たことも、うれしかった。大学生は、1、2回生だけの若いグループで、ほんとにう久しぶり。そこにアメリカから参加の方もあって、これからの子供大会にも、仏青にも一筋の光明が射す思いがした。子供の参加が減っただけでなく、高校や大学勢が不作だったのが、将来の心配事だったからだ。

 これからの若手のさらなる発展、深まりに期待したい。 

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第10回 広島・真宗カウンセリングワークショップ

第10回 広島・真宗カウンセリングワークショップご案内

 真宗カウンセリングワークショップは、法(南無阿弥陀仏)を根底においた人間中心のアプローチによるエンカウンター(出会い)グループです。このグループは、今、ここの人格的交流によって、新たな、自己との他者との法との出会いを実現していきます。
 具体的には、生きる上でのそれぞれの問題や苦しみや生きがいを、あるいは、真宗(南無阿弥陀仏)に関わる疑問や悩みや喜びを、今、ここに湧き出るままに語り合い、聞き合い、理解し合って、心の触れ合いを展開していきます。真宗とカウンセリングに深く学んでいる世話人も、グループのメンバーとして参加します。
 このグループは、従来の真宗の説法法座の枠組みを破るとともに、心理的な触れ合いや気づきを超えたグループを目指しています。
 広島での開催は、2008年7月の第1回から数えて、今回は10回目の記念の集いとなります。皆さまとの出会いを楽しみにしております。

日  時  2017年8月29日(火)13:00 受付 13:30(開始)
             ~  31日(木)16:00 終了 (3日間)

研修会場 広島教育会館ホテルチューリッヒ東方2001
       広島市東区光町2丁目7-31(広島駅新幹線口徒歩6分)
       Tel(082)262-5111 Fax(082)262-5126

定  員  16名

締 切 り    8月10日(木)です。(8月2日現在)11名の参加です。

参加資格  関心を持たれる方なら、どなたでもご参加いただけますが、時間をかけてメンバーでグループを創造していくので、基本的に3日間参加可能な方。また、現在精神医療的援助や、心理療法等を受けている方は、担当医師やカウンセラーの承諾の上で、お申し込みください。 

研修費    15,000円(学生・研究会・みみずくの会会員13,000円)
宿泊費       18,000円(2泊6食・研修パック利用)
        (但し宿泊・食事不要の方は、会場費2,000円が必要)

世話人  増井 信(真宗カウンセリング研究会事務局長)
       岩崎智寧(本会会員)

問合先 731-0152 広島市安佐南区毘沙門台1-17-4
     広実智子(ひろざねともこ)
     TEL(082)879-9482(みみずくの会) FAX(082)962-0245

まだ、数名行けます。大変楽しみなメンバーが集っています。お待ちしております。

http://dbpca.web.fc2.com/details/20170829.html

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