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7月の伝道研究会~平生業成~

 伝道研究会で「真宗の基礎」安心篇を学ぶのも、あと数カ月となった。得益篇(安心の価値)に入って、今月は「平生業成」である。親鸞さまは、直接「平生業成」という用語を使ってはおられないが、浄土真宗の教義の独自性を示すものである。

 「平生業成」の「平生」とは臨終に対する言葉で、「業成」とは業事成弁、もしくは業因成就の略である。つまり、私の往生は、平生の信の一念の時に決定するのであって、臨終を待つものではない。臨終を待ち、来迎をたのむのは諸行往生の人にいうのであって、真実信心のものは、その一念の端的に、摂取不捨の利益をたまわり、この世で正定聚不退の位に住するのである。だから、親鸞さまは「臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるときに往生また定まる」と(『消息集』第一通)と断言されているのだ。

 今日の浄土真宗でも、この平生業成の立場を強調している。臨終も、来迎もたのまないのである。しかし、「信心の定まるときに往生また定まる」の「信心の定まるとき」というところは、たいへん曖昧なまま誤魔化されている。覚如さまのいう「平生のとき善知識のことばのしたに、帰命の一念を発得せば、そのときをもって娑婆のをはり、臨終とおもふべし」が通じるか、通じないかである。信心が定まるときとは、「平生のとき善知識のことばのしたに、帰命の一念を発得する」ときにほかならない。そのときが、娑婆のをはり、臨終なのである。つまり、私の迷いの根源である自力の心が死ぬ時なのだ。しかし、三度の飯がうまいうちにこの葬式をすませたと言い切れる真宗念仏者が、余りにも少なくなった。その味がないのなら、「平生業成」も単なる言葉の上だけの喜びで終わってしまうのだ。どんなに「有り難い、有り難い」と言っても、いちばんの要が喜べないとは、なんと寂しいことか。

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