三周忌法要法座で御聞かせ頂いたこと
一昨年8月7日に往生した父の三回忌法要を営む。三回忌からは一年繰り上がるので、2年がたったことになる。正直、もうかなり昔の出来事に感じている。
法供養としたので、同人の方も遠近各地から集ってくださった。平日にも関わらず福岡や金沢、豊岡の方もあった。
正信念仏偈をお勤めした後、ご法話をいただく。単なる父を偲ぶことや思い出に留まることなく、いまの私の法座に対する有り様を指摘くださるご法話をだった。
今日のお西の法話の流れは、「やさしい法話、わかりやすい法話」を目指しているという。しかし、ほんとうにそれだけでいいのか。「自信教人信」のとらえ方一つでも、千差万別。成っていない自分なので「教人信」と働くことで、そのうち薫習されて、(徐々に)信じる身となるというとらえ方まであるという。しかし「後生の一大事」や「自他力廃立」は、いくら言葉をやさしくて頭で理解したとしても、分かることではない。いまは、真宗の厳しさ、難しさの面は語られることが少なくなった。そこから、自力や「惑・業・苦」などの問題に触れられたご法話。
そして最後に、この法座だから話したいと、法座に望む態度というか、私が法の上で大切にせねばならない事柄を列挙くださった。
まずは、聖教に親しみ、学んでいくこと。
次ぎに、「仏法のまこと」をストレートに伝えること。ダイヤの鑑定士は、ホンモノのダイヤを見分けるためにホンモノと偽ダイヤを比較はしない。ホンモノの輝きだけに触れていくと、偽物が偽物と自ずと分かるという。
それには人間関係ができていることが重要。法の友を、今生の対人関係のように好き嫌いで語り、「あの人がいるから法座にでない」という態度は、結局、仏様を傷つけていくことになる。
そのためには、念仏者といえども煩悩具足の凡夫には変わらないが、そこに腰を据えず(甘えず)に、自分のありように厳しい目を向けること。
そして、仏法を多くの人と語り合うこと。同人・法友と触れることで、「寂しそうにしているな」とか「うれしいことがあったのかな」などの配慮もできるようになる。
しかし、仏法はただご縁で終わっていてはダメ。その一歩先に進まねばならない。
ぼくなりの表現も交じってはいるだろうが、我が身に振り返ってみると耳が痛い。真宗は在家止住。対人関係の中で我が身を聞かせていただく教えだ。しかし、我が身を棚に上げて、すぐに目を他人の「善し・悪し」に向いていく。それを法座に持ち込むことは、結局、仏様を傷つけることにならないかというお言葉。厳しい一言。
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