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自力疑心

 「不定聚というのは往生が定まらないことですが、そこに化土往生も含まれていますか」という質問が届く。熱心に聴聞されているが、ずっとこの「化土往生」が、心から離れず、とらわれておられる。

 それにしてもこの質問は妙だ。化土(自力疑心)に決定があるわけがないからだ。
「定まる」ことがないのは、自力の信だからだ。疑っているものに定まることはない。「あれか、これか」と常に迷いに迷う。人の言葉に迷う。お聖教を読んでも迷う。ネットの情報でまた迷う。迷うからこそ、ますます自分で確かな何かを捕まえたくなる。それは、安心したい、定まりたいとの欲の心から起るのだろう。フラフラしないのなら、情報を遮断するしかない。自己の信念(信じたところ)以外の言葉には耳を貸さず、信念の壁を造り、そこでの仲間を囲って喜ぶしかない。とすると、化土の姿は、何もお浄土に限ったことではないのだ。最近、そんな人にたくさん出会うような気がする。壁の中で、いくら「私は疑っていません」と言ったところで、自分決定の信ならばただ空しいだけだ。

 如来さまは、そんな私を虚仮不実と指さしてくださっている。まことがない、実がない。そんなものの心が、真実報土に定まるわけがないのである。信じるこころなどないのだから、仕方ないではないか。

 にもかかわらずである。真実信心の者は、現生に正しく浄土往生に定まり、仏になる仲間入りをさせてもらうという。すべて他力回向の信心だからである。第十八願の機、「正定聚の機」と教えてくださった。他力ならばこそ決定の心をたまわり、大安心があるのだ。

 つまりは、他力のご廻向に打たれなければ、私の迷いの心には絶対に定まることはない、という金言をお聞かせに預かるのである。

 「化土に生るる衆生をば、すくなからずと教えたり」と御開山さまは言われているが、「そうじゃケド」「わかるケド」、このケドの根性が生れる世界が「化土」らしい。
(前川五郎松作「阿呆堕落偈」より)

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