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『阿弥陀経』(6)~正報(阿弥陀仏の荘厳)

 伝道研究会から4日連続で、法座(講座)や勉強会が続いた。6月が休みだった関係で、7月は聖典講座が2回ある。
 
 正宗分(本文)が三段落されるうちの、第一段目で、極楽と阿弥陀仏の荘厳が説かれる。また三つに分けられるうちの、阿弥陀仏の荘厳である。

一、まず、浄土の主である阿弥陀仏を褒め讃えられる一段である。

 釈尊が、「舎利弗、於汝意云何、彼佛何故号阿弥陀」(舎利弗、汝が意(こころ)に於いていかん。彼の佛をなにがゆえぞ阿弥陀と号する)と舎利弗に問いかけられる。四つある問いかけの三番目だが、例によって舎利弗尊者は沈黙されたままで(沈黙で答えられた)、釈尊自らが一方的に答えられる。無問自説経といわれる所以である。

 では、何故、阿弥陀仏と申されるのか。それには2つの意があるという。
 まずは、光明無量(ひかり)の故に、阿弥陀と号する。光明は無量で、十方の世界を照らして障碍するところがない。
ここでは、阿弥陀仏の十二光(『無量寿経』29頁)・無量光仏(光明は無量にして)、無辺光仏(十方の国を照らす)、無碍光仏(障碍することなし)の最初の大切な三つが出されて、阿弥陀様の光明のお徳を讃えておられる。
 
 次いで、寿命無量(いのち)の故に、阿弥陀と号する。
その寿命も無量である。また往生人の寿命も、無量である。自らが寿命無量の仏となられるだけでなく、極楽に生れた者も寿命無量で弥陀同体である。その故に、阿弥陀と号する(申される)のだと、釈尊は説かれた。
 そのことは、『無量寿経』第12願光明無量の願、第13願寿命無量の願、第15願眷属長寿の願に誓われたとおりである。

 ちなみに、阿弥陀は、サンスクリット語の「アミタ」の音写。「ア」は否定、「ミタ」は「量ること」。つまり量ることができない、無量という意味である。つまり。
「アミタ」に続き「アーバ」(光明) アミターバ -光明無量
「アミタ」に続き「アーユス」(寿命)アミターユス-寿命無量

 ところで、善導大師は、『観経』(第九真身観・摂取不捨)と合一して、独自の名義釈(阿弥陀様の名前の意味を解釈される)を展開されている。
「問ひていはく、なんがゆゑぞ、阿弥陀と号(なづ)けたてまつる。答へていはく、『弥陀経』および『観経』にのたまはく、かの仏の光明は無量にして、十方国を照らすに障碍するところなし。ただ念仏の衆生を観そなはして、摂取して捨てたまはざるがゆゑに阿弥陀と名づけたてまつる。彼の仏の寿命およびその人民も無量無辺阿僧祇劫なり。ゆゑに阿弥陀と名づけたてまつる。」(『往生礼讃』七祖篇・662頁)

 さらに、阿弥陀仏は成仏以来、今に十劫を経たと説かれる。
『無量寿経』「成仏よりこのかた、おほよそ十劫を歴たまへり」(28頁)

 正宗分の冒頭で「今現在説法」とあるように、遥か十劫の昔より、今、現在に至るまで、南無阿弥陀仏と喚(よ)びづめでおられるのである。しかもそれだけではなく、阿弥陀さまは、「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫とときたれど 塵点久遠劫よりも ひさしき仏とみえたまふ」(『浄土和讃』566頁)とあるように、久遠仏でもあるのだ。

二、次いで、阿弥陀仏に従う極楽の聖衆について語られる一段である。

阿弥陀仏には、無数の声聞の弟子がいて、阿羅漢のさとりを開いている。また菩薩衆においても、同様である。(声聞=自利、菩薩=利他の代表、自利利他円満の味わい) 阿弥陀仏の国はこのような麗しい姿で荘厳されていると述べられる。

三、次いで(現代語版では【五】)、極楽に生れた者は、阿?跋致(梵語・アヴァーイヴァルティカ・阿?跋致迦)すなわち初地・不退転地に住する。その中には、一生補処の菩薩も無数におられると説かれている。

 経文の当面は、「浄土に往生して不退転を得る」と見えるが、聖人は、「浄土ではなく、この世で獲信の端的に浄土往生が決定の身となるので、この世において不退転を得る」と、現生正定聚として頂かれたのは、『唯信鈔文意』(703頁)などに見ることができる。

以上で、正宗分の第一段で、極楽と阿弥陀仏の荘厳を終えて、次回からは、では、その極楽にはどのようにして生れることができるのか、その御利益はなにかという、一番の要のお説法が始まるのである。

 8月はお休みなのて、次回は、9月3日(日)昼1時30分。皆さん、どうぞご参集ください。

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