東京支部法座~安心の核心~
最近、なんとなく停滞気味の東京支部法座だが、今回は違った。
さまざまなご縁で、初めて、もしくは何年かぶにりにお目にかかる方が、7名もあったのだ。
真剣(もちろん凡夫の真剣は「真剣なつもり」だが)な態度で向き合われると、こちらも熱が入る。様子見の方もあっただろう。中には、土曜日の昼座だけといわれていた方が、夜も参加され、翌日も参加され、涙を流してご聴聞されている。
ここにお参りされるきっかけは、全員違う。ただある会の出身である(中には現役の方もあるようだが)という共通項はあるが、どうも心境も違うようだ。中には、ある会をやめた後、法体募り(法に偏って自分がお留守)の教えを、ただホクホクと慶んでいたのだが、それだけでほんとうにいいのだろうか疑問に思い、またここに戻ってきてくださった方もあった。
すでに阿弥陀さまがご苦労されて、泥凡夫の私のために本願を成就されて南無阿弥陀仏の声となって、今、呼んでくださっている。そのお呼び声をお聞かせに預かるだけでいい。もうすでにお慈悲は届いているのだから、それを仰がせていただく以外に、凡夫のすることはないというのである。
それが浄土真宗のお法りだ。でも、算用(計算)や理屈はあっても、なんとなく胸中にモヤモヤがあるのは、なぜか。ただ仰ぐだけで満足という方に、とやかくいう気はない。ただ、ほんとうに後生と自分に引き受け聞いていかない限り、ここの不審や疑問は起こってこないのではないか。それが宿善のある方だといってもいい。
華光では、その不審を見て見ぬふりをするのでも、モヤモヤを無視するのでもなく、お慈悲で誤魔化していくのでもはない。ほんとうにその一点に向き合い、焦点を絞ってご聴聞させていただく。つまり信疑廃立、自他力廃立、「捨てもの、拾いもの」の分際こそが、真宗安心の核心だということである。
その意味では、聞法は甘くはない。厳しい面もある。聞いても聞いてもわからない(当たり前だ。自力でわかる世界ではないのだ)。しかし、せっかく生れ難い人間に生れ、聞き難い仏法を聞かせていただいたいるのである。そこを一つを誤魔化せず、求めていこうという人達が集う場に勤めて交わり、慶んでいる方がいる以上、、一歩踏み出してそんな得道の人に道たずねて求めていく。ここは、そんな場であり続けたい。
そんな思いを強く持たせてもらったのも、真摯に求める方との出遇いがあったからだ。
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