真カ研6月の月例会~如是我聞ゲーム~
5月はアメリカ布教と重なって欠席したが、6月は担当した。西光先生の『育ち合う人間関係』を輪読している。今から、50年も前に書かれた、第1章の「カウンセリングの手引き」である。古い書物だが、まったくいまでも色あせないのは、先生を通じて示された、カウンセリング理解の深さと、崇高な理念によるものだろう。流行を追うだけの軽薄なHOW TOものなら、こうはいかない。
今月は、傾聴力の訓練ということで、話し合いのルールに乗っ取ったゲームを行った。題して、「如是我聞」ゲームである。真宗者やお寺関係の方なら、この言葉はなんのこともなく理解できるが、カウンセリング関係の方々は、「初めて聞いた」と言われている。このネーミングは、うまい。阿難尊者が、自分を交えず、お釈迦さまから聴いたままを再述して、それを同じ仏弟子たちが承認したものが、お経の始まりなのだがら、ゲームの趣旨に沿っている。
ぼくはこれまで何度(といっても最近はやっていない)も研修で行ってきたが、知らないという方が大半だったので、さっそく実践することにした。車座になり、伝え手は、隣の聴き手に「今日、参加した感想」を語り、聴き手は、それをよく聴いた上で、もう一度、話し手にの再述して返す。再述といっても、そのまますべてをオウム返しにするのではなく、内容よりも感情を大切にし、テーマを要約するというものである。
参加者は、ベテランカウンセラーだったり、実践をしている方ばかりだったが、なかなか人前で、自分の受け答えを観察してもうらことは少ない。ゲームとはいえ、皆さん、緊張の趣で、なかなか引き締まった訓練となった。同時に、短い話し手の話(本人は意識していないのに)にも、しっかり最初にテーマの提示があり、最後は現在形で終わるという話の形式になっていることに、驚いた。そして、事柄ではなく感情に付いていくと、着地点を見失うこともよくわかった。なかなか自分の番になると緊張してわからないことが、第3者の観察者の立場で見せてもらうとで、ほんとうに楽しく勉強になった。同時に、これまでどれだけのお育てを頂いたかに気付かせていただき、有り難かった。
それにしても、いかに、日頃、他人の話を聴いていないかが、よくわかった。聴くということは、相手を理解することである。つまり、聴いていないということは、相手を理解していないことである。つまり理解ではなく、常に相手を評価して生きているということである。まったく耳の痛い話である。
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