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悩み

 最近、座談会の難しさをつくづく味わう。

 まず無理強いをしても、ダメなものはダメである。下手をするとお互いに傷を負うこともありうる。しかしそれでも言ってしうまのは、なんとかして相手を変えたいという思いが強いからだ。聴く方も、なんとかしてもらえるという甘えがある。下手をすると、念仏やお慈悲を握らしてしまうこともある。また正しいことをいう時ほど、ほんとうは控えめであらねばならない。相手に負い目があって、ますます萎縮していまうからだ。

  たまたまた華光の法座でお育てを受けてきた。一方的な法話ではなく、座談会の大切さも身をもって知らせていただいた。そこは、知識の伝達ではない。愚痴や不満を言い合うのでも、悪口や談笑の場でもなければ、単なる討論の場でもない。とはいっても、「こんな話題はしてはいけない」「もっと仏法のことを話さない」と、正論を言われると、みんな黙ってしまう。

  そんなことをわかりながらも、現実は難しく、失敗ばかりしている。

 他の会からきて、なかなかこの座談会に馴染めなかったり、意味が分からず、ご縁をなくなる方がけっこう多い。自分が問われない疑問や教義的な質問は出来る。そこを丁寧に答えてくれる先生もおられるだろう。しかし、なかなか自分を打ち出せる場は少ない。それをお互いが聞きあえる場は、もっと少ない。

 それにはよく聴くことに尽きるのだろが、法話だけでなく、座談会のひとりひとりの発言に対しても、また自分自身の内ある声に対しても、よく耳を傾けることが大切である。座談会の難しさと書いたが、結局、よく聴くことの難しさなのかもしれない。

 もっともっと聴く力を身につけないといけない。そこに同じように頷き、歩んでくださるお同行や先生が増えることを念願しているが、最近、そこで行き詰まりを感じているのも事実である。なかなか若い人が育たないのも気がかりだ。

  確かに、在家から僧侶になる方が増えている。教学や布教の勉強もいい。しかし、ここでは、座談会での実力を身につけることが大切なのではないか。それは肩書や知識では渡れない生きた世界だ。恐いことだが、生身の人間同士がぶつかる場なのだ。

 ならば、その荒波に身を置いてこそ、磨かれるものもあるのではないだろうか。
 
 これからもしっかり悩んで考えていこう。

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