« 悩み | トップページ | ささやかなこと »

広島支部法座~変わらない自性~

 永代経法座から1週間。当番だった広島支部法座である。GMの最終日、しかも法座が続くので参加者は少ないと予想した。ところが当番で参加下さった方が、変わらずお参りくださっていたのが、うれしかった。その永代経法座の分かち合いを中心にしたかったので、法話も復習のような形で短めにし座談会を主にすることにした。

 皆さん、法座の余韻を味わっておられた。刺激もうけられたのか、座談会もいつになく活発だった。この度の当番を通じて、気になった方に思い切ってアプローチされた方があった。問われた方も率直に自分を披瀝くださる。それをどう聞き、理解したのかを皆さんで確かめた上で、それぞれの味わいやら自分のことなどが展開されていって、なかなか座談会が面白かった。

 大きな法座では、いろいろな法話を聞き、いろいろな方との出会いもあり、得るものも大きい。ところが、法座に出でも何の収穫もなく、進歩もないと、ダメのように思い自分の聞き方を責めてしまう方もある。ある意味でこれも自惚れなのだが、もっとしっかりした聞ける自分だと錯覚しているのである。とはいっても、何十年聞いてきても、目立った進歩がないと自己嫌悪にも墮ちるかもしれない。

 しかし、もし何十年聞いたきという自負があるのなら、それ自体がすでに聞法の長短を誇る勲章である。「20年聞いてきた、30年聞いてきた、その根性こそが浅ましい」。
20年4聞こうが、30年聞こうが、虚仮不実の私はどこまでも虚仮不実だ。まったく進歩もなけば、発展もない。第一、誰のおかげでご聴聞の場に座らせていただたいるのだろうか。その事実こそ聞かせていただくことではないのか。聴聞とは、わが身にいろいろなものを取り込む作業でも、賢くなることでも、知識を蓄えることでもない。むしろ、法によってほんとうの自分、自体が露わになってくるのだ。自分の飾りや勲章が剥がされていく厳しさがあるのだ。この世でも同じだろうが、一端、わが身に取り込んだものを手放すのは惜しい。得ることも大変だが、捨てる方がずっと難しい。壊れていくモノならともかく、目に見えないものとなると、なおさら離れ難い。それを引き剥がしてくださるのが、法の威力であり、お同行や善知識の役割である。

 もし知識や話は覚えてわかったことが増えようとも、私の本性は何一つ変わらない。その事実に出会ってならば、そんな棒にもはしにもかからない私を、変わらずに、愛想をつかすこともなく、ずっと呼びかけてくださっているご本願があることを聞かせていただくだけではないだろうか。

|

« 悩み | トップページ | ささやかなこと »

法味・随想」カテゴリの記事