序分(序説)が終わって、正宗分に入る。いよいよ釈尊のご説法が始まるのである。
本論にあたる正宗分は、大きく三段に分かれる。まず第一段は、阿弥陀仏の浄土(極楽)と、阿弥陀仏の荘厳についての讃嘆である。これをさらに三節に分科すると、まず(1)「略讃」として、簡潔に、また一言で、浄土と阿弥陀仏について説かれる段。いわば要説である。次いで「広讃」として、(2)浄土がいかなるところか(依報荘厳・環境)、そして(3)その主である阿弥陀仏と聖衆(正報荘厳・主体)についての詳しい教説が続く。今回は、(1)略讃を中心に、(2)広讃の「なぜ、極楽と名付けれらるのか」という名義のところのみを窺った。
ちなみに、依正二報についてであるが、
「正報(しょうぼう)」とは、まさしく過去の業の報いによって得た肉体と精神で、ここでは阿弥陀仏と、菩薩衆(聖衆)を指している。
「依報(えほう)」とは、その身心のよりどころとなる国土・環境で、ここではお浄土のことである。
さて、(1)「略讃」では、釈尊が、誰からの問いやきっかけを待たずに(発起序がない)、長老舎利弗に向かい、おもむろに説法を開始されていく。そして一言で、極楽と阿弥陀仏についての要点を説かれるのである。短いのでそのままあげれば、
「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします。阿弥陀と号す。今現に在して法を説きたまふ。」
というものだ。
これは『大無量寿経』にも同じく、
「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名付けて安楽という。」
と同じ表記である。『観無量寿経』では、
「なんじ、いま知れりやいなや。阿弥陀仏、ここを去ること遠からず。…西方極楽国土に生ずることを得しめん。」
と、『観経』だけは「ここを去ること遠からず」とある(この問題は『観経』のところでいただくにした)。三経に共通しているは、阿弥陀さまの浄土は、「西方」にあって「極楽(安楽)」という仏国土であることだ。
これは、「指方立相論」と言われて、浄土が、西と方角を指し、具体的な荘厳の色相を立てて顕されているのである。
それには、(1)釈尊の方便説。(2)「唯心の弥陀・己心の浄土」(我が心に浄土あり)。(3)娑婆即寂光土(この世を離れて浄土なし)などの諸説があると、古来から言われてきた。しかし、浄土真宗では「指方立相」(善導大師『観経疏』像観)論の立場で、「浄土は現に西方にあり」と頂いている。本来は、有の相を離れた無為の涅槃界であるののに、如来の大悲による「指方立相」をもって、有限の衆生への働きを示してくださっているのだ。
それでも、なぜ無辺際の浄土を、また十方の中で西方と限定されたのだろうか。
この点を、道綽さまは『安楽集』(第六大門)の中で、西方が物の帰趣(かえりこむ)ところであり、日没の地であること。そして、彷徨続ける我々の心が、真の安らぎを得る方向が定められると言われている。
しかしながら、結局のところ、浄土三部経にその理由は示されない。ただ如来さまが、西方を指さしてお示しくださったいるのであるから、凡夫はそれを頂くしかないのである。そのことで、親鸞さまは、曇鸞さまの和讃で、
「世俗の君子幸臨し 勅して浄土のゆゑをとふ
十方仏国土浄土なり なにによりてか西にある」
「鸞師答えてのたまはく わが身は智慧あさくして
いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず」
と頂かれているのである。
ちなみに、「十万億の仏土を過ぎて世界」とは、「十万億」は、満数、すべてのという無数の意味。「仏土」は、仏が教化したまう世界のことである。、法然聖人が
「これより西の方、十万億の三千大世界を過ぎて、七宝荘厳の地あり。名づけ極楽世界といふ。阿弥陀仏はこの土の教主なり。」(漢語燈録・巻七)。
と、「仏土」を仏が教化したまう世界、つまり三千大千世界(迷いの世界)と頂かれているであることにも触れておいた。
そして、その極楽から、阿弥陀如来は、今、現に説法されている、生きて働く如来さまだというのである。
とにかく今回はこの文面を何ども頂いた。西方とわざわざ指し示してくださったこと、そして、今も説法し続け、名のり続けてくださっていること。勿体ないですね。、
「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします。阿弥陀と号す。今現に在して法を説きたまふ。」