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2017年5月の18件の記事

水びたし

 想定外のことがおきる。

 アメリカ布教の前に、バタバタと日々を過ごしている。準備だけでなく、訪米までに、すませておく仕事もある。
 今日は、午前中に自力整体にいき、ドルを交換し、国際郵便を出す計画だ。午後は、散髪の予約、お土産などの買い物、夜には教案づくりを計画していた。

 ところが、予定どおり進まない事態が起こる。

 朝、連れ合いが洗濯機を回していた。洗濯が終えたところで、あたりが水びたしになっているではないか。お米やお酒もおいてるが、慌てて退ける。最初、洗濯機の排水管がズレているのだと思った。ところが洗濯機本体に異常はない。排水管が詰まっているのだ。

 その元を尋ねるべく、外の排水口を調べる。排水口いっぱい澱んだ水が溜まっている! これはまずい。2階では、明日の準備のために、便所掃除がされているが、すくに止めてもらった。業者に連絡し、専用の車を手配して汲み取ってもらうことになった。

 洗剤や油粕などの生活排水が少しずつ溜まり排水管を詰まらせていくらしい。まったく想定外のことにバタバタとしたが、すぐに対応してもらえておおいに助かった。予約変更もしてもらったり、慌ただしく買い物をすることになったが、明日の行事までに直って、まずは一安心。

 20年以上使用してくると、まったく予想外のことが起るということだ。建物だけでなく、このからだも同じなんだろう。生きてきた間のカスが、いろいろなところに詰まって、突然、どこかが詰まって切れたり、溢れたりするということなのだろう。

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『人生フルーツ』

170414 『人生フルーツ』を観る。

 東京では昨年から評判になっているが、京都はこの5月からやっと映された。1日1回上映なので、連日、立ち見がでる盛況ぶりだ。

 愛知県の春日井市のニュータウン。自然と共生する街づくりをされている老建築家夫婦が主役だ。その立ち居振る舞いが、まったく素敵だ。自然と共にいき、衣食住を整えて、かつ無理なく生きておられる姿が、共感を呼んでいる。

 実は、市井の老夫婦の晩年(どちらかの死まで)を地道に追いつづけるドキュメンタリー映画を、最近よく観る。昨年ならば、山口の山に住む夫婦と家族の25年を追いかけた『ふたりの桃源郷』お隣の韓国でヒットした『あなた、その川を渡らないで』もそうだ。こちらは98歳と89歳の純愛物語。けっこうジーンとなった。

 その2本と比べると、人生フルーツの二人には、生きる指針というか、哲学的なよりどころがかなりはっきりしていて、それが凛とした生きざまにつながっているように思えた。モットーは「年を重ねるごとに美しくなる人生」.。

  ただヴィム・ヴェンダース監督の『誰のせいでもない』と、2本続けての鑑賞だったので、ちょっと眠ってしまいましたが…。

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寺院布教

Img_0280   大阪西成の本派寺院への3年続けての出講。電車で行って、父の故郷である芦原橋駅周辺をプラプラしながら、歩いてお寺まで向かう。

 こじんまりした本堂。昨年、少しワークをやり、そのあとのやりとりがまだ頭に残っていた。

   Img_0297一方的に説教する布教法は、もうとうに限界に達している。結局、知識(正しい教義)のやりとりか、阿弥陀仏の慈悲を、先祖や親(亡き人)をホトケとして、その慈愛に共振させるような感情的な説法が幅を利かしている。かといって、話し合い法座と銘打っても、手詰まりなのが現実だ。さまざまなワークができても、その後の手立てが分からないのが、今日の浄土真宗の現実ではないだろうか。結局、法要と法話の2本立てから、脱することはできていない。

Img_0282 人数も20名以下と手頃、今回は、おもいきって法話はせずに、こちらからの質問を通して、皆さんに答えていただくことから始まった。まずは、そのご心境、聞きぶりをお尋ねしてみたかった。
 
「浄土真宗で一番たつせんなことはなんですか」と尋ねても、亡くなった両親や連れ合いの供養を縁に、お仏壇を大切にし、お給仕を怠らず、そして感謝の日暮らしをする。そこに「お念仏を申す」とい方がひとりだけあったが、それ以外は、だいたい先祖供養の信仰から出ておられない。それでも、素朴ながらも純粋な気持ちであることには変わらないし、そのことを通じて、何かに触れておられるのも事実である。ただ、そこを一歩Img_0290超えて聴く、自分の問題として聴聞することは、簡単なようで、その壁を破ることが難しい。
 
 そして夜座は、最初から車座になって法話はまったくなし。つながりの中で、自分を問うてもらいたかった。自己紹介ゲームをしたが、これがたいへん好評だった。笑い声が交わり、楽しくワークをしてくださった。顔は知っていても、会釈する程度でも、横のつながりが希薄だったというのだ。

Img_0287 そこから、お寺とのご縁を語り、そしていまの自分の悩みや、課題を語っていただくことにした。みんな、イキイキとお話をくださった。それぞれの縁があり、また悩みをもっておられるということだ。信仰の上のことはあまりでなかったが、ひとりある孤独感や不安を、率直に話してくださったのが印象的。みんな、温かいつながりを求めておられるのである。受容的な雰囲気の中で、率直な自分を語っていただけて、よかった。正解を聞いて覚えても、そこにはイキイキとしたいのちが宿っていないと意味はない。

 ひとりひとりの眼をしっかり見て、話を聞くうちに、それぞれがかけがえいない、大切なひとりひとりであると味わるから、不思議。最後に皆さんと、声に出してお念仏を申した。

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西本願寺花燈明

Img_0222  その伝燈奉告法要を記念行事として、「西本願寺花燈明」とネーミングして夜間の特別拝観が行われていた。去年のライトアップは、御影堂や阿弥陀堂をスクリーンにしたプロジェクション・ マップング。単純なライトアッブの飛雲閣は幻想的ではよかったが、ただ外見だけなので、「うーImg_0230_2ん」という感じ。かなり投資はしたらしいが、評判はどうだったか。

Img_0231 ところが、今回は国宝の唐門や国宝の書院の内部の夜間拝観である。それが、「とてもよかった!」という興奮気味の声を聞いた。地元の新聞に「いちげんさん、大歓Img_0237迎どす」という広告チImg_0242_2ラシまで入っている。

ということで、ぼくが行けるのは、今日しかないという日(第9期の最終日)を狙って、本山へ。すでに夕陽が沈んで、夕焼けが東寺を染めていた。龍谷大学の門からはいっていくが、時間ちょうどにいったが長蛇の列だ。もう前から整理券の配布が始まっていた。それでもだいたいの目安時間を教えてもらえるし、整理番号のグループ分けができていて、効率よく待つことができる(だいたい45分待った)。職員の皆さんの対応も親切だ。ライトアップされている龍谷Img_0250学の大宮学舎で時間を過ごした。こうしてみると、大学も美しい。

Img_0266 国宝の唐門を通って書院へ。対面所は得度のときにお斎をいただいた場所だ。白書院も、襖絵だけでなく、欄間の細工もすばらしい。天上絵ひとつとっても、さすがに国宝である。昼間見ても価値のある国宝Img_3226で、何度も訪れているが夜間は観たことがない。初めての試みだという。灯に照らされたそれは華麗で、かつ幻想的でもある。Img_0275大勢の参詣者がいただが、皆さん、感嘆の声をあげていた。

 国宝の飛雲閣もライトアップを外から見Img_0277学させてもらって、最後は、「生かされていきていることへの感謝」をもって参詣ください、というので、その境地にはほど遠いが、御影堂前でお念仏して終わられたもらった。

 次回は、5月24日(水)~31日(木)の夜7時~9時30分(9時10分最終)。後で聞いたところでは、後の方が空いているらしいので、9時前が狙い目か。無料ですが、熊本地震の募金をされているので、ぜひご協力を!
http://www.hongwanji.or.jp/dentou/info/001742.html

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常に求道者でありたい

Img_0200 京都駅の新幹線ホームには、西本願寺の「伝燈奉告法要」看板広告が掲示されている。

 親鸞聖人が明かにされた真実の法燈が確かに受け継がれて、いま、ここまで届いてきているのである。その受け継がれていく真実の燈火とは何々か。伝えるべき燈火とは? それをお考えになるのがご門主のお仕事なのだろう。

 同時それは、私達ひとりひとりにも同じ問いが投げかけられている。私が受け継ぎ、この胸に燈していただいた法燈とは、一体、何なのか。各々に、それがどんな形で私に届けられているのだろうか。

 もちろん、弥陀の本願を発したお念仏のお心なのだが、それは法蔵菩薩さまの願いを源泉とするものだ。すると、常のそのおこころ、その精神に根ざし、そこから離れないのである。ならば、それがわが胸に届いているならば、不法懈怠の虚仮不実の身ではあっても、常に求道者として歩み続けたい。道を尋ね、真実を求め、歩み続けていきたいのである。

 私の歩みに卒業はないのである。

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鶯の聲

Img_0214_2 鶯の 聲を聞きつる あしたより

      春の心に なりにけるかも


 良寛さんの歌だという。

Img_0215 父の書は、一点ものが多い。ぼくは、これに覚えがない。

 でも、「仏法のことではありませんが、これでも味わえます」と、この書を前に、父が法話をしたというのである。

Img_0218 確かに、ウグイスは、「ホーホケキョ」、「法、聞けよ」、と鳴きますからね。

 帰路は、高山駅で、名人の作品を撮影した。

 この前で写真を撮影されている方もありました。
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高山支部法座

初日の参加者は寂しかったが、2日目は、富山や長野からの初参加者がある。別院からも僧侶の方が2度目のお参り。最高齢は100歳。しっかり座談でも発言される。そして、若い(学生世代)方が、熱心に聞いてくれるものだからエネルギーとなった。外からの参加者のおかげで、いい座談会になったようだ。

 いつものことだが、座談会を苦手とされている。しかし今回は、フリーではなく、テーマを設けて尋ねた。たとえば「浄土真宗で一番大切なものはなんですか」とか、「ご自分の聞法のきっかけを教えてください」。そして、「いまのご自分の悩み、困っていることでも、もしくは課題にしているを教えてください」という問うていくのだ。

 これが予想以上に活発でよかった。

 高山支部が出来て20数年経過したが、その歴史を聞いているようで、その間にも、実にさまざまな出会いがあり、そして別れがあり、ご縁があったことを改めて教えられた。

   また、それぞれが、それぞれの業を抱えて、つらい現実と向き合っている姿も尊かった。日頃、冷静な熟年の男性が、家族の問題で、肩を震わせて、声詰まらせながら、自分の悩みを率直に語ったくださる方の姿には感動もした。

 ただ、高山の皆さんの課題は、その後の分かち合い(シェーアリング)になると、どんよりした空気になることだ。ここは単純に、「面白かった」とか「話しやすかった」とか、「みんなが近くに感じられた」といった程度の感想でいいのだけれども、どこか身構えられている。いいことを、立派なことを言わねばないという思いが強すぎるのかもしれない。ほんとうに一言でもいい、単純でもいいので、いま、みんなで体験し、経験したことを、率直にその気持ちや思いを分かち合い、共感することができるならば、さらに一層、皆さん同士が、お互いを近く、ますますかけがえのない存在として尊重できるのではないだろうか。

 これは次回の課題に!

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『ヒトラーの忘れもの』

  アカデミー賞受賞関連品が、数多く上映される季節になった。

 映画界の最高の栄誉のように錯覚されかちだが、ハリウッドが世界を席捲していた時ならいざしらず、所詮、英語圏(原則、あくまでもハリウッド製作で、ロサンゼズルでの上映がされているなど)の映画しか対象にはならない。しかもアメリカ人は字幕で映画を見るのはキライなようで、古代の中国が舞台で、俳優は中国人でも、みんな映画を喋っている。妙なのもで、日本では吹替え映画は子供向けのよう思われがらなのが、対照的だ。

 それはちょっと余談だが、英語圏の以外の映画は外国語映画賞という分野だ。各国代表から、さらに5本がノミネートされて、本作『ヒトラーの忘れもの』はデンマーク代表。

 これがハラハラと、観ている者も肩が凝るような緊張感たっぷりの映画だった。

 第二次対戦直後、小国であるデンマーク人が、支配層であったナチスドイツに対して懐いていた感情(憎悪)が、その背景になっている。日本人には、この感覚の複雑さは、当事者ではないので、正確に味わえないものだろう。でも好意的な雰囲気でないことだけは明かである。

 連合国の上陸に備え、デンマークの海岸線に、ナチスはは200万個以上の地雷が埋めれていた。終戦後、命懸けの除去作業をおこなったのは、捕虜であったドイツ兵である。しかも大半がまだ未成年の少年兵であった。神経をすり減らす命懸けの作業が続いてく。数センチ単位で、棒をさして匍匐前身しながら、地雷を除去していくのだが、常に死と背中合わせだ。一瞬の油断や不運で、からだが粉々になってしまう。

 しかも捕虜の待遇は劣悪だ。食べ物もろくに与えられず、上官は、彼らを罵倒し、警戒しつづけている。人間扱いされていない。回りの彼らを見る眼も、おそろしく冷たい。そんな劣悪な環境の中でも、彼らには夢がある。地雷除去が終わると、ドイツに必ず戻すという約束がなされているのだ。なんとか祖国に戻り、新しい国づくりのためにそれぞれの夢を叶えたいと願うものばかりだ。みな普通の子供(青年)たちである。しかし、仲間や兄弟が、作業中にいのちを落すものも出る。それでも、あきらめずにひたむきなに作業を続ける彼と、敵視していた監視役のデンマーク兵が、徐々に心を通わせていくようになる…。というようなストーリー。

 普通なら、きっと堪えきれずに自殺するするものが出でもおかしくないような、あまりにも過酷な任務に、こちらもハラハラのし通し。狂気や、憎悪、または冷酷さと同時に、人間的な交流が徐々に生れて、立場や民族を超えた人のぬくもりも十分に味わえる佳作だった。
 

 

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現生十種の益

 伝道研究会も「得益篇」にはいり、「現生十種の益について」だ。

 親鸞聖人は、『信巻』で、

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。

 といわれた。浄土真宗では、人間の欲望を満足させる一般の現世利益を否定するので、現世利益和讃やこの現生十種の益にしても、どうも軽く見がちである。この文にしても、「横に五趣八難の道を超え」という横超で迷いの根切れがされたところもすごいのだが、その後に「必ず」と言い切っておられる。もちろん、他力信心の法悦の内的光景を述べられたもので、一般の攘災招福的な信仰や物質的な利益や単なる道徳的な規律を超えたものであることはいうまでもないが、もっと身近なところで、わが身に味わっていっていいのではないだろうか。

 また、前の九つのご利益は、すべて十「入正定聚の益」に具せられた法悦的光景である。なぜなら、人生の究極の目的である仏果を得ることが、信の一念の端的に定まり、入正定聚の益を得ることは、無量の計り知れない宗教的価値の実現が包含されているからである。だから、「また現生無量の徳を獲」(念仏正信偈)と述べられているのである。それをあえて、十種と示されているのにすぎないのではある。

 現生十種の益のその構造を示すと

(能護)ーー 一、冥衆護持の益-因人

(所護)体ー 二、至徳具足の益-具徳(法徳)
     用ー 三、転悪成善の益

(能護) 末ー 四、諸仏護念の益
            五、諸仏称讃の益ー果人
     本ー  六、心光常護の益

(所護)    七、心多歓喜の益
         八、知恩報徳の益ー相発
         九、常行大悲の益

≪総≫    十、入正定聚の益

 七、「心多歓喜の益」(心に歓喜、喜び多い)、八、「知恩報徳の益」(ご恩徳を知り、そのお徳に報いる)、九、「常行大悲の益」(常に大悲を行じる)の三つは、機相(つまり私の上に)発現れるご利益だとはいわれる。御利益ということは、喜ばせていただくことも、ご恩報謝させていただけることも、常行大悲も、すべていただきものだということだ。
 
 勿体ないことです。

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真宗法座の集いのご案内

   5月20日(土)13:30~21(日)16:30に、第15回の真宗法座の集いを開催します。キャンセルがでて、まだ定員に達していません。遠近各地から、初参加者も含めていろいろな方が集っておられます。特に今回は、かなり新鮮な顔ぶれです。初めての方が7名もおられます。まだ大丈夫です。皆さんも、ご参加されませんか! 

 http://keko-kai.la.coocan.jp/event/2017/detail/05/shinshuhoza2017-5.htm

 大きな行事では、参加者も多く、また出入りも激しいので、分級座談会でひとりの方とじっくり関わるということが難しのが現状です。それで、人数を絞り、出入りもなくして、2日間、浄土真宗の原点に帰って、膝詰めで念仏讃嘆する集いを開くことにしました。法座の進行だけでなく、法座の運営も、みんなが少しずつ協力しながら進めていく、まさに浄土真宗のサンガを目指してきました。

 最近、信仰座談会が「苦手」とか「苦痛」、「法話は聞きたいが、座談は嫌」「どのように話したり、関わるのかが分からない」などという「信仰座談会アレルギー(?)」の方の声を耳にする機会が増え、気がかりになっているのです。確かに、大人数だったり、短時間の中では、充分に聞き合い、語り合い、関わり合うことは難しいものです。でも、単なる時間や人数の問題だけでしょうか。信仰座談会が苦痛だという方の中には、たとえば、

 座談会に不慣れだったり、その意味が分かっておられない方、
 座談会で傷ついて、なかなかその先に進めづらい方、
 自分が傷つくのも、他人を傷つけるのも怖いという方、
 関わりたくても、どうすればいいのかが分からない方、

など、さまざまな方がおられるような気がします。.それでも、みんなが集う法座の縁をなくして、私が阿弥陀様に出会うことはないのも事実です。

 改めて、浄土真宗や華光会の原点は、讃嘆談合の場、信仰座談会にあることを踏まえ、未信者はもちろん、ご法を喜んだという方と一緒に、自分たちの法座を作っていきたいと思います。人数を絞った固定したメンバーが、少人数に分かれ、2日間、共に語り聞き合い、聞法しましょう。

 司会者や他者と関わりたいと願う方には、生きた実践の場となります。世話人の自薦も大募集です。

 皆さんの勇気ある一歩をお待ちしております。 合掌

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仏教入門講座「ブッダとは誰か」

  今年も、佛教大学の一般公開講座の「仏教入門講座」を受講している。4月から始まったが、相変わらず、イスが足りなくなるほどの盛況ふり。定年後の年代が中心である。 昨年は、大乗経典の総花的な話だったので、高野山大学の教授から窺った「密教経典」の話が面白かった。ほとんど知らないことばかりだからだ。今年は、「教えを説く人、教えを聴く人」というテーマであるが、「仏・法・僧」についての講義となるようだ。昨年は、高野山大学だけでなく、文教大学学長の平岡先生などが登壇されたが、今年は、佛教大學の仏教学の先生が担当される。

 4月からは、まずは「ブッダとは誰か」と題して、吹田隆道先生の講義を聞いている。やはり生で聞くのは書籍では味わえない面白さがある。(録音禁止)残らないので、遠慮なく、大御所である中村元先生の研究の誤りを面白おかしく批判をされていた。しかし偉大なベースとなる先行研究があるからこそ、それを発展させるだけでなく批判することで、さらに乗り越えて発展していくものだろう。

   余談となったが、パーリーや漢語経典だけでなく、特にサンスクリット経典と照合しながら、釈尊伝を洗い直しておられる。従来の研究では、釈尊の生涯をモデルにして、その後の過去仏などの仏伝が造られたと思われていたが、『マハー・アヴァンダーナ経』の前半部などは、当時、知られていた釈尊の生涯の「わずかな情報」を、過去仏に投影して、ブッタたるものはという前提条件をつくって、それを普遍化し、釈尊のブッダ伝がつくられたきたというのである。しかしそれは意味のないものではなく、考古学的な裏づけのないものは、当時の人達が求めていたブッダ像としていただくという姿勢で始まった。

 誕生のところひとつでも、これまで知っていたことに新しい視点を教えていただいた。詳しくは、別の機会に触れるが、「なぜルンビニーなのか」「なぜ、白象が入胎したのか」「右脇から生れたというわけ」や「七歩歩かれた真相」など、宗教的な意味で理解するだけでなく、それが顕されている歴史的な背景などが聞けて、「ヘェー」と驚くことが多かった。.

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ささやかなこと

Img_0203  広島の会場に隣接する公園に、藤がまだ咲いていた。下がり藤である。

 この公園では、3月中旬にもう桜が満開だった。もしかして梅かと思うほど、早咲きだった。

 Img_0205それもいまや新緑てある。ふとみると、小さなかわいい実がなっていた。
 食用のさくらんぼとは品種が違うそうだが、これもやはりさくらんぼである。

 ささやかな話題。

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広島支部法座~変わらない自性~

 永代経法座から1週間。当番だった広島支部法座である。GMの最終日、しかも法座が続くので参加者は少ないと予想した。ところが当番で参加下さった方が、変わらずお参りくださっていたのが、うれしかった。その永代経法座の分かち合いを中心にしたかったので、法話も復習のような形で短めにし座談会を主にすることにした。

 皆さん、法座の余韻を味わっておられた。刺激もうけられたのか、座談会もいつになく活発だった。この度の当番を通じて、気になった方に思い切ってアプローチされた方があった。問われた方も率直に自分を披瀝くださる。それをどう聞き、理解したのかを皆さんで確かめた上で、それぞれの味わいやら自分のことなどが展開されていって、なかなか座談会が面白かった。

 大きな法座では、いろいろな法話を聞き、いろいろな方との出会いもあり、得るものも大きい。ところが、法座に出でも何の収穫もなく、進歩もないと、ダメのように思い自分の聞き方を責めてしまう方もある。ある意味でこれも自惚れなのだが、もっとしっかりした聞ける自分だと錯覚しているのである。とはいっても、何十年聞いてきても、目立った進歩がないと自己嫌悪にも墮ちるかもしれない。

 しかし、もし何十年聞いたきという自負があるのなら、それ自体がすでに聞法の長短を誇る勲章である。「20年聞いてきた、30年聞いてきた、その根性こそが浅ましい」。
20年4聞こうが、30年聞こうが、虚仮不実の私はどこまでも虚仮不実だ。まったく進歩もなけば、発展もない。第一、誰のおかげでご聴聞の場に座らせていただたいるのだろうか。その事実こそ聞かせていただくことではないのか。聴聞とは、わが身にいろいろなものを取り込む作業でも、賢くなることでも、知識を蓄えることでもない。むしろ、法によってほんとうの自分、自体が露わになってくるのだ。自分の飾りや勲章が剥がされていく厳しさがあるのだ。この世でも同じだろうが、一端、わが身に取り込んだものを手放すのは惜しい。得ることも大変だが、捨てる方がずっと難しい。壊れていくモノならともかく、目に見えないものとなると、なおさら離れ難い。それを引き剥がしてくださるのが、法の威力であり、お同行や善知識の役割である。

 もし知識や話は覚えてわかったことが増えようとも、私の本性は何一つ変わらない。その事実に出会ってならば、そんな棒にもはしにもかからない私を、変わらずに、愛想をつかすこともなく、ずっと呼びかけてくださっているご本願があることを聞かせていただくだけではないだろうか。

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悩み

 最近、座談会の難しさをつくづく味わう。

 まず無理強いをしても、ダメなものはダメである。下手をするとお互いに傷を負うこともありうる。しかしそれでも言ってしうまのは、なんとかして相手を変えたいという思いが強いからだ。聴く方も、なんとかしてもらえるという甘えがある。下手をすると、念仏やお慈悲を握らしてしまうこともある。また正しいことをいう時ほど、ほんとうは控えめであらねばならない。相手に負い目があって、ますます萎縮していまうからだ。

  たまたまた華光の法座でお育てを受けてきた。一方的な法話ではなく、座談会の大切さも身をもって知らせていただいた。そこは、知識の伝達ではない。愚痴や不満を言い合うのでも、悪口や談笑の場でもなければ、単なる討論の場でもない。とはいっても、「こんな話題はしてはいけない」「もっと仏法のことを話さない」と、正論を言われると、みんな黙ってしまう。

  そんなことをわかりながらも、現実は難しく、失敗ばかりしている。

 他の会からきて、なかなかこの座談会に馴染めなかったり、意味が分からず、ご縁をなくなる方がけっこう多い。自分が問われない疑問や教義的な質問は出来る。そこを丁寧に答えてくれる先生もおられるだろう。しかし、なかなか自分を打ち出せる場は少ない。それをお互いが聞きあえる場は、もっと少ない。

 それにはよく聴くことに尽きるのだろが、法話だけでなく、座談会のひとりひとりの発言に対しても、また自分自身の内ある声に対しても、よく耳を傾けることが大切である。座談会の難しさと書いたが、結局、よく聴くことの難しさなのかもしれない。

 もっともっと聴く力を身につけないといけない。そこに同じように頷き、歩んでくださるお同行や先生が増えることを念願しているが、最近、そこで行き詰まりを感じているのも事実である。なかなか若い人が育たないのも気がかりだ。

  確かに、在家から僧侶になる方が増えている。教学や布教の勉強もいい。しかし、ここでは、座談会での実力を身につけることが大切なのではないか。それは肩書や知識では渡れない生きた世界だ。恐いことだが、生身の人間同士がぶつかる場なのだ。

 ならば、その荒波に身を置いてこそ、磨かれるものもあるのではないだろうか。
 
 これからもしっかり悩んで考えていこう。

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『阿弥陀経』(3)略讃

 序分(序説)が終わって、正宗分に入る。いよいよ釈尊のご説法が始まるのである。

 本論にあたる正宗分は、大きく三段に分かれる。まず第一段は、阿弥陀仏の浄土(極楽)と、阿弥陀仏の荘厳についての讃嘆である。これをさらに三節に分科すると、まず(1)「略讃」として、簡潔に、また一言で、浄土と阿弥陀仏について説かれる段。いわば要説である。次いで「広讃」として、(2)浄土がいかなるところか(依報荘厳・環境)、そして(3)その主である阿弥陀仏と聖衆(正報荘厳・主体)についての詳しい教説が続く。今回は、(1)略讃を中心に、(2)広讃の「なぜ、極楽と名付けれらるのか」という名義のところのみを窺った。

ちなみに、依正二報についてであるが、
「正報(しょうぼう)」とは、まさしく過去の業の報いによって得た肉体と精神で、ここでは阿弥陀仏と、菩薩衆(聖衆)を指している。
「依報(えほう)」とは、その身心のよりどころとなる国土・環境で、ここではお浄土のことである。

 さて、(1)「略讃」では、釈尊が、誰からの問いやきっかけを待たずに(発起序がない)、長老舎利弗に向かい、おもむろに説法を開始されていく。そして一言で、極楽と阿弥陀仏についての要点を説かれるのである。短いのでそのままあげれば、

「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします。阿弥陀と号す。今現に在して法を説きたまふ。」

というものだ。

 これは『大無量寿経』にも同じく、

「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名付けて安楽という。」

と同じ表記である。『観無量寿経』では、

「なんじ、いま知れりやいなや。阿弥陀仏、ここを去ること遠からず。…西方極楽国土に生ずることを得しめん。」

と、『観経』だけは「ここを去ること遠からず」とある(この問題は『観経』のところでいただくにした)。三経に共通しているは、阿弥陀さまの浄土は、「西方」にあって「極楽(安楽)」という仏国土であることだ。

 これは、「指方立相論」と言われて、浄土が、西と方角を指し、具体的な荘厳の色相を立てて顕されているのである。
 それには、(1)釈尊の方便説。(2)「唯心の弥陀・己心の浄土」(我が心に浄土あり)。(3)娑婆即寂光土(この世を離れて浄土なし)などの諸説があると、古来から言われてきた。しかし、浄土真宗では「指方立相」(善導大師『観経疏』像観)論の立場で、「浄土は現に西方にあり」と頂いている。本来は、有の相を離れた無為の涅槃界であるののに、如来の大悲による「指方立相」をもって、有限の衆生への働きを示してくださっているのだ。

 それでも、なぜ無辺際の浄土を、また十方の中で西方と限定されたのだろうか。
 この点を、道綽さまは『安楽集』(第六大門)の中で、西方が物の帰趣(かえりこむ)ところであり、日没の地であること。そして、彷徨続ける我々の心が、真の安らぎを得る方向が定められると言われている。

 しかしながら、結局のところ、浄土三部経にその理由は示されない。ただ如来さまが、西方を指さしてお示しくださったいるのであるから、凡夫はそれを頂くしかないのである。そのことで、親鸞さまは、曇鸞さまの和讃で、

「世俗の君子幸臨し  勅して浄土のゆゑをとふ
 十方仏国土浄土なり なにによりてか西にある」
「鸞師答えてのたまはく  わが身は智慧あさくして
 いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず」

と頂かれているのである。

 ちなみに、「十万億の仏土を過ぎて世界」とは、「十万億」は、満数、すべてのという無数の意味。「仏土」は、仏が教化したまう世界のことである。、法然聖人が

「これより西の方、十万億の三千大世界を過ぎて、七宝荘厳の地あり。名づけ極楽世界といふ。阿弥陀仏はこの土の教主なり。」(漢語燈録・巻七)。

と、「仏土」を仏が教化したまう世界、つまり三千大千世界(迷いの世界)と頂かれているであることにも触れておいた。

 そして、その極楽から、阿弥陀如来は、今、現に説法されている、生きて働く如来さまだというのである。

 とにかく今回はこの文面を何ども頂いた。西方とわざわざ指し示してくださったこと、そして、今も説法し続け、名のり続けてくださっていること。勿体ないですね。、

 「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします。阿弥陀と号す。今現に在して法を説きたまふ。」

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みどりの日

Img_0166 永代経が終わって、会館の事務所も5日間のお休みに入った。ぼくは、その合間に法座はあるし、事務所もあけられない。映画館にImg_0163は通ったが(これはいつものこと)、だいたいは留守場をしていた。

 4日のお昼だけは、簡単なお弁当とワインをImg_0159もって、近くの梅小路公園に行く。

 コンサートや催しで賑やかである。初めて、みどりの日であることに気付いた。

Img_0187_2 街中の造られた空間だが、みどりの中で、ゆっくりとお昼を食べた。ちょっと人込みを避けた場所に陣取ったか、日にちも、行動も、Img_0157_2まったく昨年と同じである。ただ花々だけは、ちょっとだけり遅いようで、八重桜が咲いていた。ツツジは見ごろだ。天気もよく、気温も温かだ。一時ではあったが、気分転換に最適。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-9278.html
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尊かった信仰体験発表

 今回の信仰体験発表は、いろいろな意味で刺激的であった。

 それぞれの人生体験が、まるで小説や映画のような壮絶なものばかりで、驚きの連続。ある方が、「やっと自分を解放をしていいと思えました」と、これまで封印されていた壮絶な歩みを淡々と語ってくださったのも、有り難かった。どこかでご自分を責めておらもたのかもしれない。

 悟朗先生から、「真宗のお法りは、人生経験や苦労をしたから聞けるというものではない。仏法は人生経験を超えた世界です」と、常々お聞きしている。そのとおりで、苦労しているから聞けるというものではない。往々にして、現世利益の新興宗教に傾く方も多い。それでも、ここに集う人々は、その辛さ、逆縁が、仏法に向かう強縁となったのであるから、尊いことである。

 中には、「一念のところがハッキリしていない」という指摘があったようだ。そう教えてくださるもの有り難い。ただ何かハッキリしたものを握って停まる人よりも、道を求めて歩み続けることの尊さを味わうようになった。

 皆さん、凡夫ではあるが、道を求めて歩み続ける尊き人々である。お一人お一人に合掌せずにはおれなかった。

 

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御聞かせに預かった永代経法座

  GMの前半の永代経法座も終わった。 

 法話を通し、座談会を通し、また信仰体験発表を通して、お聞かせに預かった3日間。

 平日(金曜日)が入るので、初日の参詣者は少なめだったが、2日目からは例年並のお参りがあった。3日間の昼座は法要もあって、順次、浄土三部経をお勤めさせていただいた。
 今回は2座ご法話を担当した。他にも4名のご講師からご法話を頂戴する。ぼくも、努めて前列に座りご聴聞させていただいた。ちょっと最初が欠けたこともあったが、ほぼ道場に座って拝聴することができた。大きな行事中は所用や雑務が多い。法座の合間に会議もあって資料作りもある。それを理由に、疱瘡での聴聞が多かったが、今回は事前に用事をすませた。法話検討(2席目目)は残ったが、道場に座ることを優先させた。当たり前のことだが、身を置いてお聞かせに預かることの大切さを感じた。
 
 もし法話を聞くだけなら、録画したものでも同じ内容は聞ける。繰り返し繰り返し聞けるというメリットもある。何かを暗記したり、覚えるのならそれでいいかもしれない。だが、その場の空気感を味わうことはできない。からだがしんどかったり、居眠りしたり、念仏が溢れたり、暑かったり寒かったりも、すべてこの身に直を置いて、肌で聞かせてもらうことである。それには、お金もかかる。時間もかかる。日程や仕事のやりとりもある。からだもしんどい。閉じていたいときは、億劫だ。懈怠の身は、楽な方に楽な方に流されていく。
 それが凡夫の性である。

 だからこそである。常に一歩を踏み出して聞かせていただきたい。その懈怠の身を一歩踏み出して、法の仲間(お同行)の集うの法(のり)の集いに身を投じる。そして、口を開き、互いに腸(はらわた)をみせて法を語り合う。

 改めて、その幸せを味わわせて頂いた永代経法座だった。

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