« 四十八願のこころ(13)第二十二願 | トップページ | 収穫のあった寺院布教 »

イキイキした法座を、共に創造していきましょう

 京都支部法座をあえて、明日から3日間の寺院布教にお招きいただく。 華光会の永代経法要を前で、日程はハードだが、とても楽しみである。

 事前に寺報に掲載される巻頭の言葉を書いた。

 結局、華光の集いであろうが、寺院布教であろうが、ぼくの法座に臨む姿勢、態度のようなものである。3日間、楽しみである。

   ******************* 

 4月の別修永代経で、皆さまとの2年半ぶりの再会を心待ちにしています。
 ところで、皆さんは、お寺の法座をどう思っておられますか? 最近、ご講師の力量は上がり、知識も豊富、教義の裏付けもあり、話術も巧みな先生が増えています。でも、それに伴い法座が活性化されているかというと、そうともいえません。法座が、立派な先生の「結構なお話」を聞く講演会か、教義の勉強会のようになっていませんか。

 法話という伝道形式は、一方的なコミニケーションです。しかし正確には、決して一人では成り立たず、話し手と聴き手が、共に創造していく共同作業の場です。でも、テーマを出すのは話し手。ちょうど料理店でシェフのおすすめ料理を食べるようなものです。既知の講師なら、和食かフレンチかと、だいたいの中味は察しがつきます。だからそれを楽しみにできるが、常に主導権は説き手側にあります。どうしても、聴き手は、受け身で、おまかせのサービスを受けるだけで終わってしまいます。だから、何となく参詣し、「よかった」「眠たかった」「難しかった」…批評的な感想で終わってしまいがちですね。

 人と人との出会いは、予期せぬ化学反応も引き起こします。しかし法座は、人間の出会いだけを喜ぶ場ではありません。本来の法座は、人と人の出会いを超えて、私がご法に出遇っていく場です。浄土真宗でのご法は、南無阿弥陀仏の名号法です。私が南無阿弥陀仏に出遇せて頂く場だということです。つまり、ここに集うお一人お一人が、南無阿弥陀仏という、いま、ここに生きて働いておられる仏さまに、お出遇いをさせて頂き、ほんとうの幸せをいただく場なのです。ご本願の前では、僧も俗も、男も女も、聞法歴の長短も関係なく、平等です。ぜひとも一方通行の法座で終わらず、ここに集う人々が、共に聞き、ご法の喜びを語り合い、分かち合っていきましょう。もし本願に疑問がある方は、その不審を尋ね、また初めての方も臆せず、率直な思いを表明して下さい。そして、阿弥陀さまのお力で、「南無阿弥陀仏」に溢れたイキイキとした場を、共に創造していきましょう。

 そのために、ぼくも、精一杯、おのれを開いて臨む3日間にしたいと願っています。合掌

|

« 四十八願のこころ(13)第二十二願 | トップページ | 収穫のあった寺院布教 »

法味・随想」カテゴリの記事