新潟・北陸支部法座
昨年の法座と同じ2日は、桜が満開だったが、今年はまだ蕾で、一輪も咲いていなかった。それでも、ここからの眺めは美しい。浅野川の流れに、遠く白山の山々が眺望できる。
新年度の初日ということで、ちょっと参加者は少なめだったが、初めてお会いする方が4名おられた。皆さん、真剣に聞いてくださる。また、法座の雰囲気や、法話内容にが新鮮で、かなり驚かれたようだ。特に2日目の朝座は、座談会で通して、温かいいい法座となった。
テーマは、何を、どう、聞くのか。特に、何を聞くのかをメーンに、2席お話した。
親鸞さまは、成就文の「聞其名号」の「聞」をご解釈されて、「仏願の生起本末を聞いて」(信巻)と仰った。
一方、蓮如さまは、同じく「聞其名号」から、「南無阿弥陀仏の六字のいわれをよくききひらき)(3-6通)と仰った。
つまり、親鸞さまは「仏願(本願)の生起本末」、蓮如さまは「南無阿弥陀仏の六字のいわれ」と言われた。これは同じことなのか、それとも異なることなのか。もし同じとするならば、本願と南無阿弥陀仏は、どんな関係になるのか。あらためて問われてみると、皆さん、戸惑われる方が多かった。
中には、「本願が親で、名号が子です」といわれた方もあった。それで、「親子ならば、悟朗先生が本願で、ぼくが名号になりますよ。親子といえども、まったく人格が違うのですが、本願と名号もそうなんですか」と言うと、困っておられる。どうやら、娘(名号)-嫁(信心)-子(称名)の法話と混乱されているのだろう。
よくご聴聞されている方なら、当たり前になりすぎて、あらためて問われると困るようだ。
そこで、(こんな言葉あるのかどうか知らないが)「法格の上では、本願と名号になりますが、人格(正確に仏格)的には、どうですか」。と尋ねると、「本願」は法蔵菩薩、「名号」は阿弥陀さまです、お答えができる。そこではっきりしてくる。お正信偈でいうならば、本願は「法蔵菩薩因位時」。つまり、因位にある時が本願。それが成就し果上でいうならば、名号となる。決して、別人格の親子ではないので、そこをお正信偈で確かめていくと、皆さん、深く頷かれる。
そんな風に、ひとつひとつ確認しながら、「生起」とは、「本」とは、「末」とは、、そして六字も、二字と四字に分けて、丁寧にお話もうした。いつも聞かれていることだろうが、あらためて阿弥陀様の大悲のお心を新鮮に聞いていただけたのではないだろうか。
昨年4月1日のさくら
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