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『阿弥陀経』(1)総説より

今回から『阿弥陀経』に入ったが、前回は、浄土三部経の全般のおさらいを中心に、『阿弥陀経』を窺ったので、今回と重複することも多いが、その組織・概観を中心に、『阿弥陀経』のDVDを観たりした。
 さて、通常、経典は、次ぎのように三分割される。
1)序分=お経の序たる部分で、一般の序章に当たる。
2)正宗分=お経の本論。
3)流通分(るずうぶん)=お経の結言に当たる。

 これを『阿弥陀経』で窺うと、次のようになる。

1)序 分=阿難尊者の記述
2)正宗分=釈尊の言葉のみ
3)流通分=阿難尊者の記述

通常、1)の序分は、まず、証信序(通序)と言われる、六事(信・聞・時・主・処・衆)が成就したことが示し、これが仏説であり、信じるに足るものであるということを証して始まる。つまり「「如是我聞」とか、「我聞如是」で始まる部分である。ある意味、定型的な記述になっていて、形は多少の違いはあるが、すべてのお経にほぼ共通するものである。その後、発起序(別序)と言われる、そのお経自体が説かれたおいわれ、事情が述べられ、正宗分というお経の本論に入っていくのである。

 ところが、『阿弥陀経』には、証信序(通序)のみで、発起序(別序)がなく、いきなり釈尊の説教がはじまるのである。つまり、聴衆の問いを待たずに、また合間にも、質疑や応答がなく、一方的に釈尊が説法し続ける。それもいきなり始まるのが、阿弥陀さまとその浄土についてのお姿である。だから、『阿弥陀経』は、「無問自説経」であり、ほんとうにお説きになりたかったことを説かれる「釈尊の出世本懐経」だと、親鸞聖人はいただかれたのである。

▼「この『経』は大乗修多羅のなかの無問自説経なり。しかれば如来、世に興出した まうゆゑは、恒沙の諸仏の証護の正意、ただこれにあるなり」(化土巻・398頁)

▼「この『経』は無問自説経と申す。この『経』を説きたまひしに、如来に問ひたて まつる人もなし。これすなはち釈尊出世の本懐をあらはさんとおばしめすゑに、無 問自説と申すなり」                  (一多証文・686頁)

 通常あるものがないということで、逆に深い意義が強調され、雄弁に語られるということがあるということだ。

 4月からは、内容に入っていくが、序分の中で、聴衆について、特に十六名の羅漢(釈尊の直接のお弟子、声聞方)についてのお話を中心に味わっていきたいと思う。教義的な問題ではなく、そのエピソードを中心に頂きたいと思うので、どうぞご参加ください。

 日時=4月16日(日)昼1時30分~5時

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