お彼岸の大阪支部法座
広島の翌日は、大阪支部法座。生駒での家庭法座である。春のお彼岸の中日である。
こちらも、女性陣が、3世代揃っておられる方が、二組もあった。
せっかくなので、お彼岸についてのご法話。
この世が此岸なら、お浄土こそが彼岸である。その両岸を隔てる大海原こそ、生死苦海であり、難度海だ。本来、私が六波羅蜜の行、つまり六度の行を修めて、生死の苦海を渡っていかねばならない。しかし、私は六度どころか、その対極にある六慢の姿である。つまり、布施ではなく貪欲であり、持戒ではく無戒(戒律を保ったことがないので破戒以下である)であり、忍辱どころか常に愼恚で燃え盛り、禅定どころか散乱しまくり、精進せずに懈怠でありつづけて、そして智慧はなく愚痴の塊である。もう六慢が満ち満ちているのである。
ところが、その私のために自ら六度をなして、その功徳を回向してくださる御方がおられるである。阿弥陀さまが、自らの命を投げ出してくださった布施の行、檀波羅蜜の行を窺いながら、そのお心をいただいた。度し難い難度海を渡る願船、つまり南無阿弥陀仏をご成就してくださったのである。
そして大音声を発し、西の岸から招き喚き続けてくださっているのである。
大悲の呼び聲である。
「一心正念直来」の見事な掛け軸である。
仏壇の上には「直来」。こちらは父の揮毫。
グズグズしていていは、もったいない。
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