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2017年3月の13件の記事

華光誌発送

 76-2号の華光誌を発送する。

 今回は、通常の誌上法話の代わりに、先の「増井悟朗先生一周忌の集い」で行われた「如是我聞」の時間から、お同行さんの発表を掲載している。前後篇、2回の掲載となる。いつもの法話とは、一味違う味わいができるが、これもまた生きたご説法してお聞かせに預かれる。

 信仰体験談も三名の方。それそれが違う経緯から、ご縁を結ばれているので、各人に特色があって面白い。今回が初回が2名と、5回シリーズのSさんは、今回がクライマックス。呼ばれたから、お返事する。先に、勅命の呼び聲があり、そしてそれにこちらの選びや都合は意味がなさずに、ただお答えするだけという「勅命」の心を、この身で聞かれたところが有り難い。

 華光誌には、チラシが3種類。5月の永代経法要のお誘いと、7月の北海道聞法旅行のご案内。そして、増井悟朗先生の「正信偈講義」の3回シリーズのDVDのご案内。カセットテープから、データ化するために多くの同人方のご協力をいただいた。悟朗先生の直筆のテキストは、パソコンで打ち合わしてあるが、敢えてそのまま利用することにした。ぜひ、ご利用ください。 

 

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『阿弥陀経』(1)総説より

今回から『阿弥陀経』に入ったが、前回は、浄土三部経の全般のおさらいを中心に、『阿弥陀経』を窺ったので、今回と重複することも多いが、その組織・概観を中心に、『阿弥陀経』のDVDを観たりした。
 さて、通常、経典は、次ぎのように三分割される。
1)序分=お経の序たる部分で、一般の序章に当たる。
2)正宗分=お経の本論。
3)流通分(るずうぶん)=お経の結言に当たる。

 これを『阿弥陀経』で窺うと、次のようになる。

1)序 分=阿難尊者の記述
2)正宗分=釈尊の言葉のみ
3)流通分=阿難尊者の記述

通常、1)の序分は、まず、証信序(通序)と言われる、六事(信・聞・時・主・処・衆)が成就したことが示し、これが仏説であり、信じるに足るものであるということを証して始まる。つまり「「如是我聞」とか、「我聞如是」で始まる部分である。ある意味、定型的な記述になっていて、形は多少の違いはあるが、すべてのお経にほぼ共通するものである。その後、発起序(別序)と言われる、そのお経自体が説かれたおいわれ、事情が述べられ、正宗分というお経の本論に入っていくのである。

 ところが、『阿弥陀経』には、証信序(通序)のみで、発起序(別序)がなく、いきなり釈尊の説教がはじまるのである。つまり、聴衆の問いを待たずに、また合間にも、質疑や応答がなく、一方的に釈尊が説法し続ける。それもいきなり始まるのが、阿弥陀さまとその浄土についてのお姿である。だから、『阿弥陀経』は、「無問自説経」であり、ほんとうにお説きになりたかったことを説かれる「釈尊の出世本懐経」だと、親鸞聖人はいただかれたのである。

▼「この『経』は大乗修多羅のなかの無問自説経なり。しかれば如来、世に興出した まうゆゑは、恒沙の諸仏の証護の正意、ただこれにあるなり」(化土巻・398頁)

▼「この『経』は無問自説経と申す。この『経』を説きたまひしに、如来に問ひたて まつる人もなし。これすなはち釈尊出世の本懐をあらはさんとおばしめすゑに、無 問自説と申すなり」                  (一多証文・686頁)

 通常あるものがないということで、逆に深い意義が強調され、雄弁に語られるということがあるということだ。

 4月からは、内容に入っていくが、序分の中で、聴衆について、特に十六名の羅漢(釈尊の直接のお弟子、声聞方)についてのお話を中心に味わっていきたいと思う。教義的な問題ではなく、そのエピソードを中心に頂きたいと思うので、どうぞご参加ください。

 日時=4月16日(日)昼1時30分~5時

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福岡法座での分かち合う

  博多は、「しゃぶしゃぶ・あり田」での九州支部法座。

 初日の法座は、導入の法話はせずに、いきなり分かち合いから入った。

といっても、テーマを設けたほうが、話題も出で活性化されると思ったので、
1、「それぞれの仏法とのご縁」(最初のお誘いのきっかけなので外側)、
2、(なぜ聞法しようと思ったのか)「内なる動機」
3、「いまの私の課題、悩み、問題点」など

の3つである。15名ほど、スッスと進むかと思ったら、皆さんが雄弁に語る方が多くて、1、2が終わったころで、もう100分は立っている。休憩を挟み、3、課題を一口ずつお尋ねしていった。

これだけ長くなるとは思わなかったが、一人として同じものはないのが面白い。しかも、「正解」がある問いではないので、皆さん、イキイキとお話くださった。同時に、3の課題一つでも、それぞれの人柄とか、もしくはそれぞれのいまの立場や聞法の姿勢が、すっと立ち上がってくるようでよかったのではないか。

また、2にしても、それぞれが異なるのがいい。中でも、
 「自由に成りたい。開放されたい」という願いから聞法された方が、世間の業は逃れれないが、しかし、ご法の上で自由自在になることを知らされたとか、
 また「ほんとうのこと、真実か聞き方という方」は、そこで、「お前は虚仮不実で、まことはない」と指されている真実に出会われたが、ほんとうのことが知ってうれしかった、という話しなどが印象に残った。

 ぼく自身は、死ぬことの不安が大きい。加えて、何不自由ない恵まれた人生を歩ませてもらってきたが、常に一人というのか、空しさを感じてた青年期の孤独感が、聞法の大きなきっかけになったことをお話させてもらった。

 昼座は、たっぷり話し合って、まるで法話を聞くようでもあったし、密度が濃くなって、けっこう聞くのも疲れたが、有意義な分かち合いになったのではないだろうか。

 

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古風な宿

Img_9116  博多は、「しゃぶしゃぶ・あり田」でのご法座。夜座は、法座はなくて、懇親会になる。例によって、御馳走という名の殺生に舌鼓を打つ。

Img_9118 大分、熊本組、京都や広島の参詣者と、宿に移動。ビジネスホテルではなく、博多祇園の繁華街のビルの合間にある古風なImg_9125宿だ。「子供大会の会場だった、義乃家みたいでしょう」と言われたが、確かに客室にはImg_9129コタツがあり、雰囲気が似ている。中は、迷路のようImg_9126で、あっここちにトイレや洗面所が、ボチボチと点在していた。

 でも、ここは福岡市で唯一の国の有形文化財だそうだ。その点では、近江八幡の会場と同じImg_9124である。

 確かに、トイレも、洗面所も古く、不便だ。でも、それを「レトロで懐かしい」と置きかれると良さになる、というのが不思議。

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お彼岸の大阪支部法座

 広島の翌日は、大阪支部法座。生駒での家庭法座である。春のお彼岸の中日である。

 こちらも、女性陣が、3世代揃っておられる方が、二組もあった。

 せっかくなので、お彼岸についてのご法話。

 この世が此岸なら、お浄土こそが彼岸である。その両岸を隔てる大海原こそ、生死苦海であり、難度海だ。本来、私が六波羅蜜の行、つまり六度の行を修めて、生死の苦海を渡っていかねばならない。しかし、私は六度どころか、その対極にある六慢の姿である。つまり、布施ではなく貪欲であり、持戒ではく無戒(戒律を保ったことがないので破戒以下である)であり、忍辱どころか常に愼恚で燃え盛り、禅定どころか散乱しまくり、精進せずに懈怠でありつImg_9105づけて、そして智慧はなく愚痴の塊である。もう六慢が満ち満ちているのである。

 ところが、その私のために自ら六度をなして、その功徳を回向してくださる御方がおられるである。阿弥陀さまが、自らの命を投げ出してくださった布施の行、檀波羅蜜の行を窺いながら、そのお心をいただいた。度し難い難度海を渡る願船、つまり南無阿弥陀仏をご成就してくださったのである。

Img_9109_2  そして大音声を発し、西の岸から招き喚き続けてくださっているのである。

 大悲の呼び聲である。

 「一心正念直来」の見事な掛け軸である。

 仏壇の上には「直来」。こちらは父の揮毫。

 グズグズしていていは、もったいない。

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広島支部法座~四世代の法縁~

Img_9084  お彼岸の日曜日の広島支部法座。 

   オープン戦なのに、もうマツダスタジアムはずいぶん盛り上がっている。WBCの余波で、日本のプロ野球も熱を帯びている。 

  春といても、桜はこれからだ。今年はかなり遅いようだが、会場前Img_9085_2の公園の早咲きの桜は、一足早くすでに満開で、青空に色鮮やかである。

でも、今月の法座の顔ぶれは、負けずに色鮮やかであった。

  あるご家族が、高齢の祖母を先頭に、母、娘、孫娘の四世代が揃っておられる。他にも、祖母-母-娘の三世代のご家族もおれらる。ほぼ女性陣ばかりである。法事でも、年忌でもない。純粋な聴聞の場に、世代を超えた人々が、一同に会して、共にお念仏してくださる姿が勿体なかった。

Img_9088 特に、四世代の方は、娘世代で、ごきょうだい三名-つまり姉-弟-妹が前列に並んで、ご聴聞くださっていた。これまで実現しなかった顔合わせだ。義理もなければ、強制もない。聴聞の場に、誰からも押しつけられずに、皆さんが揃ってくださったのだ。これまでのさまざまな経緯、苦労を知るだけに、これはとてもとても不思議で尊いことだと喜ばずにはなれなかった。もちろん、まず聴聞の場に座られただけで、これからが出発点だ。がしかし、その場に座ってくださっていたことだけでも、尊い宿善の現れだと拝まずにはおられない。

 すべて阿弥陀さまのお力である。

「ここに集まるみ子たちは
 仏の力で参りきて
 喜び、うやまい、たてまつる」
(「十二礼」子供聖典バージョン)

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第41回講習会~『歎異抄』(4)~

 『歎異抄』に入って、4回目の講習会だ。異義篇の後半14~18章をいただく。

 正直、馴染みの薄い章ばかりだ。第1回、第2回に比べて、異義篇に入ると参加者が減ってきたのも、致し方ないのかもしれない。それでも、今回からの参加者もあり、皆さんと一緒に味読させていただいて、ぼくにとっても貴重な時間であった。

 さて、歎異抄は、前半の親鸞聖人のお言葉を伝える聖語篇が人気が高い。全編が端的な力強い表現で語られ、時には意表をつく鋭い言葉で、現代人の心も打つものだ。教義上からもみても、後の学者が「唯信訓」と名付けた第1・2・3章が重要で、特に第1章の歎異抄全体を総括する重要な章だ。

 それに比べて、後半の異義篇は、親鸞聖人の教えと異なる当時の異義を批判し、唯円房の耳に残る聖人の教えを伝える部分で、前半に比べると回りくどく長い章が多い。そのせいもあって、どうも省みられることが少ない。それでも、異義篇の前半の第11章・12章・13章は、聖語篇の唯信訓の第1・2・3章に対応する部分なので、読まれることは多いが、今回取り上げる14章以下は、一気に関心が低くなる。ぼくがもっている歎異抄の解説書(もちろん、すべてを網羅しているものが大半だが)をみても、「聖語篇」だけを取り上げたものがあれば、そこに「後序」を加えたもの、もしくは第13章だけを加えたものもある。中には、「11章以下は、現在は見られない異義なので、原文のみを載せます」と、わざわざ断ってある解説書までもあるのだ。

 でも、しかしである。

 ほんとうに今は読んでも仕方ない意味のない異義なのだろうか。そう捉えては、『歎異抄』の本質はまったく分かっていないことになる。唯円さんがほんとうに書きたかったのは、この後半の異義篇である。親鸞聖人の亡き後、面授口伝の直弟子の、その薫陶を受けた(つまり聖人から孫弟子)もののなかに、聖人の教えに背くことを言い出すものが出来たというのである。まだ教団として礎もなく、教義も確立していないのだから仕方ない部分もある。すでに聖人が京都在世の時でも、関東ではさまざまな混乱があったことは、聖人のお手紙からも窺うことが出来る。それにしてもである。聖人のご往生から20数年で、孫弟子のところで、勝手なことを言い出して、同室の念仏者を混乱させいるというのだがら、いかに真宗の安心が、難信で、また微妙なものかが窺えしれるのである。

 だからこそ、唯円さんは、泣く泣く筆を染め、聖人の教えと異なる異義を綴り、同室の念仏者の不審に答えようとされたのである。そのための正しいはかりとなるように、前半の記述があるのだから、やはり後半も頂かないと、前半の聖語篇のこころを深めることはできないのではないだろうか。

 それに異義者の心情を察していくならば、第17章や第18章のように、一見荒唐無稽な異義も、今日の私たちにも通じる迷いの根があることが窺えた。特に、善悪にとらわれること、その結果を畏れること、そして自力に執着し、もしくは学解(学問)的な聞法が幅を効かしたりということなのだがら、これらは今日の私たちの上での聞き間違いにも通じる異義だといってもいいのだ。
 
 今回、華光誌と平行しての準備はたいへんだったが、こんなことでもないと、真剣に、集中して勉強させてもらうこともない。しっかり学んでこなかった14章以下だったので、ぼくの中でも新たに気付かせていただくことも多々あって、その度に、何かご褒美をいただいた気持ちにもならせてもらった。各章の詳細に触れる機会があれば、また綴っていこう。
 

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3月の高山支部法座~自策自励して~

Img_9050  3月の高山支部法座。

 電車で一人で行く予定だったが、急に、連れ合いも参加できることになって、車で高山へ。高山までは、だいたい3時間30分くらいだ(帰路は、複数の事故渋滞に巻き込まれて、6時間近くかかったImg_9068が)。3月に入ってから雪の心配はなさそう。関が原から岐阜方面は、まったく雪はなかったが、さすがに飛騨国に入ると回りImg_9071_2は雪景色。特に、今年は積雪が多くて、たいへんだったようだ。こあたりは標高も高く雪が溶けずに残っている。ここまでくると、雪山も美しい。それでも、ピークはすぎているので、今回はノーマルタイヤでもまったく問題なかった。

Img_9055 新しい支部長さんが工夫をして、こんなプログラムを作製されていた。初めての方が和むようにと、かわいいイラストも入っている。毎回、利用できるように、バーツが磁石で留められるにもしてある。隙間の部分には、

「おのおの聞け、強健(ごうごん)有力(うりき)の時、自策自励(じしゃくじれい)して常住を求めよ」

という往生礼讃の御文。悟朗先生に何度もご法話を頂き、皆さんも馴染みが深い。たまたま今年の年賀状に、ぼくがこの御文を一筆したことで、そこを受けてくださったというのである。

 小さなことかもしれない。それでも、初めの方へ少しでも柔らかく伝わればという配慮がよく伝わってくる。これもまた、新しい支部長さんの自策自励の姿として頂いた。どうか、人任せのご法座、先生まかせのご法話にしないで、どんな小さく見えることでも、おのおのが工夫し、参画くださることが、法座の活性化につながるのではないだろうか。

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創意と工夫の法話

Img_8926   寒中子供大会。参加者が集まりが悪く、世話役はお誘いに苦労された。仏青世代も、大人も少ないが、寒中子供大会なのに、子供の参加者が特に少なかった。幼児も含めて、どうにか開催にこぎつけた。

 にも関わらず、法話担当の生方は、いっさい手抜きをされない。母も言っていたが、人数が少なすぎると、準備にも力が入りづらい中で、子供たちが飽きないようにと、何枚ものかわいい絵を描き、クイズを出し、ギターを弾いたり、馴染みのある歌を歌ったりと、その創意と工夫の熱意には頭が下った。皆さん、仕事を持ち、または子育てを真っ最中に、Img_8977時間を割いて準備をしてくださっているのだ。中には、準備の途中で眠たくなったので、セロハンテープを瞼に張ってまで頑張たという方もあった。いつもは子供たちの感想文を中心に「はちす」を発行するが、今回は、先生方の法話を「華光誌」に掲載してほしいとの声もでた。ただ、視覚や聴覚にも訴えた法話だったので、ただ文字を観るだけでは十分に伝わらない点があるのは残念だ。次回の機会には、先生方のこの並々ならぬ熱意にImg_8982触れていただきたい。

 それにしても、子供たちは正直だ。興味のあることには集中できるが、すぐに飽きてしまう。大人と違うのは、それがすぐに態度に現れる。あくびをする、「エー、まだあるの」と正直に言う。幼い子は、じっとしImg_9031ておれずに歩き回るものもいる。

 では、私たちは、それとどう違うのか。大人は、しつけていただいたおかげで、じっと座っていることはできる。しかし、退屈になると居眠りし、他所事を考え、心はここにはあらだ。表に出さないだけ、質が悪いのかもしれない。まざまざと私の姿をみせつけられる。

 だからこそ、あの手、この手の種々のご方便があり、そのたまもので、いま仏法を聞く身にまで育てていただいたのである。

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ぼちぼち再開します

とにかく多忙だった。
 特に、講習会と、華光誌の編集が重なった。予定していたことなので、それなりに準備は進めていたが、それでも、予期せぬ出来事は起こってくる。自分や家族だけではなくても、ちょっとしたことで歯車が狂うものだ。加えて、今年は町内や地域の役員もているので、3月は総会や会合が続いて、こちらもちょこちょこと時間をとられた。

 それでも、おかげさまで無事に講習会も終えた。それになりの教案も造ることができたと思う。華光誌の原稿も、予定日には渡せた。今週は、「聖典」「広島支部」「大阪支部」と3日間連続で法座があったが、講習会と華光誌の後の「聖典」は、なかなかハードであったが、なんとか乗り越えて、一段落しいたところ。

 2月の寒中法座から、行事の報告も滞っているが、下書きは出来ているものもあるので、行きつつ戻りつしながら、また再開していきたい。

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講習会あります

歎異抄も第4回目。

第1回目、2回目に比べると、昨年の異端篇に入ってから参加者が減って、今回も少し寂しい。確かに、前半の聖語篇に比べると、後半の異義篇、しかも14章以降は、急に馴染みのない章だ。しかし、もともとの『歎異抄』が『歎異』抄と呼ばれる故は、11章以降にある。著者の主張は、第11章以降にあるのだがら、聖語篇のおいしいところをつまみ食いしないでかないと、ほんとうの意味で1~10章のお心はいただけないのではないだろうか。

参加だけなら当日でも大丈夫です。今回は、食事はなしですが、いまなら宿泊もできます。

迷っている方も、いまからでもどうぞ。今回からの参加者もおられます。

◎3月11日(土)13時30分~12日(日)16時30分(1日だけでも可)

http://keko-kai.la.coocan.jp/event/2017/detail/03/koshukai2017-3.htm

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桃の節句

Img_90083月3日の雛祭り。子供たちはここにいないが、今年もひな人形を飾られている。3日をすぎて、講習会あたりまで、御参りの方にも観ていただくつもりだ。

2月の日高法座の帰り、道の駅に寄った。連れ合いは、新鮮な野菜Img_9009を求めて、野菜直売場に立ち寄るのが好きだ。ところが、その日は大雪で、目ぼしい野菜はなく、代わりに枝を数本抱えている。売店で何が咲くのか尋ねると、「桃の花だと思います」との返事。「思います」とは、少々たよりない話で、しばらくは蕾もつけずImg_9039に、「ほんとうに?」という感じでいたが、3月が近づくにつれて、蕾が膨らんで、一輪、一輪、桃の花が咲き出した。
残念ながら満開とはならないが、桃の節句に合わせて、ぼちぼちと淡い花をつけています。

 

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スランプ

 弥生、3月に入った。

 スランプが続いている。

 といっても、仕事は、充実している。法座活動に、今なら4月発行の華光誌の編集作業と、講習会の勉強も始まった。

 でもブログだけは停滞している。 いまに始まったわけではないが、ここ最近は顕著だ。

 ネタは豊富にある。法座や行事は、毎週続くし、合間にも、講義や勉強会に出たり、連日、映画を観たり、もちろん日常で感じたこともたくさんある。

 ところが、一度、滞るとなかなか進まなくなる。PCに向かっても、気が重いというのか、少し書きかけたところで、億劫になってしまうのだ。

  もう10年以上、続けている。先日のカウンセリグの記事ではないが、熱意も、根気もなくなっているようだ。

 ということで、こんなくだらない愚痴を書くだけでも、案外、打開策になる気がしたが、、、。

 さて、さて、どうなることだろう。

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