« 立春 | トップページ | 通夜の法話は、、。 »

何を、なぜ、どう「聞く」のか

 東京支部。新しいご縁の方もお参りくださり、宿泊者も、参加者も久しぶりに多かった。

 ご法座は、何を、なぜ、どう「聞く」のかを、蓮如さまの『御文章』などによりながら、お取り次ぎする。四座あったので、具体例やかみ砕いたお話ができたのではないだろうか。

 浄土真宗は「聴聞にきはまる」。しかし、聞くしかないといっても、ただ大様に、なんでもかんでも聞いてさえいればいいのでなはい。

「讃嘆のときなにもおなじようにきかで、聴聞はかどをきけ、と申され候ふ。詮あるところきけとなり」(51条)

と、御一代聞記書にもあるように、「かど」「詮あるところ」、つまり肝要、要点、かなめを聞けというのである。では、その要点、かどは何か。その手がかりが「何を」「なぜ」「どのように」聞くのかということになる。

 ところで、「聴聞の要点を外してはいけない」と教えられると、どこかで効率的な聞き方を求めることにはならないか。たとえば、信心獲得に役立つから宿善を積む、そのためにと財施も頑張る。ところが、浄土真宗でそんな求道は、自力の修行で捨てものだと聞かされると、財施までも止めてしまう。結局、自分の得になるか、役に立つか、立たないかで、仏法までも自分で判断するのである。もしそんな調子で、効果があり、効率よく求めるために、聞法の要点を聞いていたならば、まったくの本末転倒である。

 それでは、何を聞くのか。親鸞聖人のお言葉なら、「仏願の生起本末」を聞く。蓮如さまのご文章なら、「南無阿弥陀仏の六の字のいわれをよくききひら」くということである。阿弥陀如来さまが、本願をおこされた精神、南無阿弥陀仏となってくださったお心に思いを馳せたならば、自分の得とか、役立つかと、効率とか、そんな利己的な欲得とは、まったく正反対の利他のの塊、真実心そのもの、清浄心そのもので、南無阿弥陀仏となってくださっているのである。そんな清浄、真実のお心が、衆生の限りある知恵、欲得の心で計れるわけがないのである。

 だから、どう聞くのかといえば、「疑心あることなし」なのである。それを蓮如さまは、「もろもろの雑行、雑善をなげすすて」とか「自力のこころをふり捨てて」、そして、「一心一向に弥陀をたのみまいらせ」るのてある。つまり、自力を捨てて、他力に帰せよ、衆生の行も、善も、知恵も、計らいも、自力ならばなにひとつ役立たないのである。

 でば、なぜ聞くのか。「後生こそ一大事なり」。真宗の聴聞の要は、ここに尽きるのである。これを外しては、真宗のご聴聞にはならない。だれのひとも、早く、後生の一大事に心をかけて、お聞かせに預かるのである。けっして、今生事やこの世の幸せ、もしくはこの世の幸せの延長にある後生でもない。如来さまの叫びである、後生の一大事に心をかけて聞くことこそが、聴聞の要のひとつとなるのだ。

 後生の一大事と、自他力廃立を聴聞の結び目にして、南無阿弥陀仏の六字のおいわれをお聞かせに預かっていく。そこを踏み込んで話した。  

|

« 立春 | トップページ | 通夜の法話は、、。 »

法座と聞法」カテゴリの記事