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新しい出遇い~東海支部法座~

 Img_8838京都の雪は、うっすら屋根に残る程度だが、予定より早く家を出た。新幹線は、米原付近の積雪で徐行運転で遅れている。既に雪は止んでいたが、名古屋駅へは30分遅れで到着した。そこから、刈谷市での東海支部法座に向かう。

 大勢のお参りだ。久しぶりの方、東京や高山からの参加者に、新聞の宗教欄をご覧くださった方もあって、満席の賑わい。支部長交代の矢先に幸先がよい。

あらかじめテーマをだす。「お念仏の中の人生」と、一般の方にも有り難そうなテーマを出した。もちろん、題材があっての話。修正会以来、よく取り上げている「私にとっていちばん大切なものは何か」、それを追い求める「生活」だけでなく、何のための「人生」か、大切なものひとつが「念仏」ではなく、毎日の活きる為の活動「生活」も、人として生きる「人生」も、すべてお念仏に出会い、お念仏を申すためになるのものである。「生活」-「人生」-「念仏」について、具体例を交えながらお話させていただいた。

 人数が多いので、2つのグループに分かれての信仰座談会。

 初参加の学生さんは、すでに聞法の焦点が定まっている。感度のよさ、吸収力のよさには、驚かされる。それも『仏敵』や『念仏の雄叫び』の仏書と、悟朗先生の法話CDだけをたより、ここまで求めてこられたのだ聞いて、一同ただ感心するばかりである。

 しかしただ感心しているだけでない。異口同音に、適格をアドバイスがはいる。
 
 確かに本や音源だけでも、ある程度の聴聞はできる。しかし、それにも限界がある。いまの時代、ますます根機(仏法を聞く人間の資質)が衰えているからた。

 たとえば、「自分を知る」といっても、自分では自分はわからない。そこを、身近な生活に即して、具体的にお聞かせに預かることが大切だ。しかし、「如来さまがご覧になった自分」を聞くといっても、自分ひとりの力では無理だ。だからこそ、真実に出会って、先に幸せをされた先輩同行、知識につとめて近づく。そして、そんな先達が集う場で、自分を開き、口を開き、その聴き間違いを糺していただいく。正確を覚えて言えるよりも、間違いを間違いと聞かせていただくことが、聴聞だ。

 聴くとは、頭を垂れ、己を空しうして聴くこと以外にはない。

 いまの時代の私たちが、一番苦手なことだ。このブログをこっそり観ている「あなた」にこそ、お勧めですね(^。^)

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