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通夜の法話は、、。

  またまた町内会でお悔やみがある。60軒ほどの小さな町内なのに、年に3~4件は訃報が入る。特に、寒い時期、暑い時期は、よくある。

喪主は、一学年下の方で、小学校の時には毎日のように遊んでいた。書道教室にも熱心で、一時は、書道の教職を目指しておられたときもあった。 葬儀を執り行うのは、同級生の浄土真宗本願寺派のお寺だ。といっても、彼は次男で僧籍は取っているが、お寺には入っていない。

 通夜は、三奉請、表白、そして、頌讃と続いて、正信偈六首引である。通夜で、頌讃を初めてきいたが、なかなかお上手で、この流れもかっこよかった。ホールは静かで、時折、雑談の話声が聞こえる。ひとり僧侶の読経の声が響く。正信偈から勤行させてもらった。もちろん、抑え目に出したが、最初だけ、始まってしまうと関係ない。お念仏は、大きな声でさせていただいた。が、最初に司会者から、「合掌」という合図があったが、最後はなかったのは、残念だ。

 ちょうど1年前の1月にも、このお家の葬儀があり、同じ先生のご法話を聞かせていただいている。前回は、死後の世界、七七日までの審判の話だった。今日は、最初は、故人の思い出を話されて、亡くなられたことは寂しいことだが、けっして塩をまいて忌むことではない。なぜならば、浄土真宗では、阿弥陀さまのお力で、みんなが間違いなくお浄土に行かせていただく。倶会一処で、誰もが、間違いなく、よい世界に生まれることができる。どうか安心してください、と堂々と仰るのである。よくよく聞いていたが、一言も、「お念仏を申して」とか、「ご信心ひとつで」という言葉はなかった。はっきりと、二度、三度も同じことを繰り返される。ここまで堂々とされると、後の話が耳に入ってこない。その後、前回と同じく、私と亡くなった方を分けない。みんな無常の身などとも仰っていたようだが、、。

 せめて、「阿弥陀さまの願いは、皆様すべを必ず浄土に生まれさせるというものです。その願いが皆様にかかっています」とか、もう一歩踏み込んで、「そのお心をお聞きさせて頂きましょう」「南無阿弥陀仏と申しましょう」というのならともかく、「浄土真宗では、みんな間違いなく浄土(よい国)です。安心してください」では、、。

 いくら通夜の法話とはいえ、これで浄土真宗の法話かと、ちょっと憤りつつ、がっかりしたのであった。

  http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-852f.html

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