何を喜ぶのか?
今月は土曜日になった広島支部法座。法話の分かち合いを一言ずつ回した後、Aさんの発言から場が動きだした。
「ある会の勉強会に参加して、『地獄行きの私』を喜んでいる発言ばかりしていたら、『Aさんは浄土往生を喜ばないのですか。そこはどう聞いていますか』と問われた。地獄行きはよく分かるが、お浄土のことは、聞いて覚えところで答えることは出来ても、それでは伝わらない。実は浄土往生のことはわからないし、喜んでいないのだが、皆さんはどうですか」
というような問いであった。
数名の方が反応される。自身の自督(愚禿の信心においてはかくのごとし)と語られる方もあれば、まさにそこが分からないと共感される方もある。しかし「私は、浄土往生を慶ばせてもらっています」という発言はなかった。
外側の話題に移るのではなく、今一度、Aさんの問題にするために、もう少しその心境をお尋ねしてから、問う。
「では、今、称えておられるお念仏で、浄土往生は大丈夫か?」と。
自問されている。少し間のあと、涙と共に「ただ南無阿弥陀仏しかありません」という尊いお答えが返ってきた。
が、その場でのぼくの直感だが、ぼくが発した問いの持つ心まで、十分に伝わった気はしなかったので、加えてお話をさせていただいた。
まず、地獄行きは喜べて、浄土往生は喜べないのでは、浄土真宗の正信とはいえない。その日のご法話でも、真宗は、頭を垂れて聞かせていただく以外にはない。そしてご聴聞は、「後生の一大事」を離れてはないが、後生の一大事には、「堕地獄の一大事」と、「往生浄土の一大事」ある。しかし唯一の一大事に二つあるのではなく、これはひとつのことで離れない。二種深信でいうならば、同じ紙の裏表、機法二種一具の味わいのところだという話をしたばかりだった。つまり、機の深信(地獄一定)だけを喜ぶのでは、浄土真宗のご信心の相とはいえないのである。
しかもである。自分で地獄行きは喜べる、実感があるから話せるというのも、大きな自惚れだ。地獄行きも、また如来さまに教えて頂き、お聞かせ預かったことが抜けているのだ。確かに浅ましい身は常にここにましますので、ご縁にあえば、ほんとうにいやというほど見せられるのではある。しかし無明の身には、ほんとうはそれすらも分からないのである。
そして、お聞かせに預かるのは、わが身の浅ましさ、地獄行きの姿だけではないく、その地獄行きの私を哀れと思し召し、それをお目当てに立ち上がってくださった阿弥陀さまのお慈悲もよくよく聞かせていただくのではないか。つまり、地獄行きの身も、往生浄土の道も、共に、仏縁を頂き、阿弥陀さまのお心を聞かせて頂いてお教えいただくことなのである。
何のために、阿弥陀さまは浄土を建立され、南無阿弥陀仏となってくださったのか。三厳二十九種の浄土の荘厳は、一体、誰のためなのか。無明煩悩に覆われて、聞く耳もない私ひとりをお目当てに、阿弥陀さまが正覚の位を捨てて、もう一度、願を起し、行を励んでくださったのである。この私が、安心して帰っていける世界、私をお目当て、正客として迎えるためにお浄土を建立され、私が帰ってくるのを、遥か十劫が昔から、呼んで、呼んで、呼びづめで、待って、待って、待ってくださっているのではないか。つまりは、私が帰るべきお浄土も、そこに生まれるお手立てまでも、自らが南無阿弥陀仏の中に身投げをして、その六字にすべてをかけて成就してくださったのである。
凡夫の身で、阿弥陀さまの清浄そのもののお浄土が、ほんとうに分かるわけはない。しかし、今、私の口をついて出てくださる「南無阿弥陀仏」の六字の中に、そのすべてが封じ込められて、その親心のすべてが届けてられているのではないか。そのお心に、大慈悲心に触れたならば、喜ぶなと言われても、喜ばずにはいられないのである。
「地獄行き、地獄行き」と簡単に口にだされるが、さてさて、皆さんは、いったい何を喜んでおられるのだろうか。
「選択摂取のお浄土の 花ふる里は誰が里
清風微妙の音楽も 七宝樹林の輝きも そびゆる宮殿楼閣も
いちいち衆生のためばかり
親の宝は、子の宝
南無阿弥陀仏の大宝」(仏教詩歌集より)
| 固定リンク