華光誌輪読法座~大千世界に満ちる火を超えて聞け~
平日の昼間、しかも冬になって参加者が少ない。それでも、平日だからと参加くださった方もある。家庭や仕事の関係で、平日の方が参加者しやすいという方もあるのだ。
聖教のこころは、『無量寿経』の流通分(るずうぶん)で、お経の結びにあたる。広くこの教えを後世にも伝えてほしいという釈尊の願いが、弥勒菩薩に委嘱されるので、弥勒付属ともいわれる。
つまり、最後に、六字名号の御利益を示す段があって、南無阿弥陀仏のおいわれを聞法して、そして一声でも称名念仏するものは、この上ない大きな功徳が得られるというを説かれて、だからこそ、たとえ三千大世界を焼きつくす猛火の中をもくぐり抜けて教え聞けとお諭しになっている。親鸞聖人が、
「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり」
と和讃されているところである。
ここを読んで、ある方のお味わいが有り難かった。
ぼくが小学生の時に、悟朗先生から「いのちがけで聞くか」と迫られ、「南無阿弥陀仏に飛び込め」とのお示しは、ここに根拠があるのではないか。それは、いのちがけになれるとか、なれないとかというのではなく、
「結局、お釈迦さまのご命令(勅命)だったんですね」、と発言された。
それを聞いて別の方が反応される。
「いまのぼくは、命懸けで聞けるとは思えません。いまの心境では、無理です」と。
そうではない。もし、私が命懸けで聞けるようになったとか、もしくはそんな心境になれさえすれば信心獲得できるのだ、という聞き方こそが、自力疑心の捨てものなのである。
「大千世界に みてらん火をもすぎゆきて」聞けというのは、けっして、私の努力目標でも、勇ましスローガンでもない。もちろん、獲信のための条件でもない。お釈迦さまが、弥勒さまにお伝えすることで、私に指し示してくださった「仰せ」なのである。
真宗のご聴聞は、「仰せを聞く」ことだ。如来さまの「来いよ」の勅命、つまりご命令に信順するだけであって、けっして、私の心境をとやかく尋ねることではない。教主世尊が、「たとひ大千世界に満ちる火を超えて聞け」と、衆生に向かって仰ってくださっている。
ならば、私が聞くしかない。しかし、大火を前にすると、さまざまな思いがでるだろう。躊躇も、遠慮も、逡巡も、「どうすれば」もあれば、疑いや弱気の心もある。まさに私の胸に大火の如く自力の心が満ちているのである。そして、その心で、昿劫から、ずーと長綱を引いて逃げ、迷ってきたのである。だからこそだ。「その火に飛び込んでも聞け」と仰せになっている。ならば、いま、ここでその仰せに従って、一声、「南無阿弥陀仏」と飛び込むのである。
| 固定リンク
« 寿命 | トップページ | 福岡での家庭法座 »