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真実のお働き

報恩講では、法話を二座担当した。法座の準備をしながら法話の教案を考えた。普段の法座では慌ただしく法話することが多いが、今回は準備の時間がとれた。準備が十分あれば、満足する法話になるかというとそれでもなかった。教案やプリントを造ったのに、どこかまとまらないままの法話となったのは、要反省である。ただ、今回のことを下敷きに、もう少し法話を練ってみたいと思う。

 「我依修多羅 真実功徳相」の天親さまのご文を釈された曇鸞さまの「三依釈」をメーンにした。究極の依り処である。「何に依るのか」「なぜ依るのか」「どう依るのか」てある。

 「なぜ依るのか」というと、「如来が真実功徳の相だから」というのである。この真実功徳相の「功徳」について、曇鸞さまは、「二種あり」と示されている。二種といっても、凡夫のおこす諸善や果報は、すべて「不実功徳」だと示されている。真如に離反し、轉倒し、虚仮なのである。「不実」であるのに、あえて「功徳」と示されているところに意味もある。

 それに対しての如来さまの働きは「真実功徳」だというのである。その真実の働きとは、法性に従い清浄の相である。そして真如に背かず、轉倒の衆生を摂め取って、この上ない悟りに入らせるから偽りではないというのである。

 ところで、親鸞さまは「真実明に帰命せよ」の和讃の「真実」の左訓に、「真」というは、「偽り、へつらわぬを真」という。「実」というは、「かならずものの「み」(実)となる」をいうものなり、といわれた。
 真実の働きには、一つは、偽ったり、諂ったりしないことをいうだ。偽ったり、諂ったりしないで、不実を不実と教えてくださるのが、真実の「真」の働きだというのである。つまり、一見、利他のように他のための利益で働くようであっても、轉倒している凡夫の善は、所詮、自己中心の善や功徳にすぎないというのである。しかも、善を行っていることに自惚れたり、酔ってしまって、それが不実であるとは、夢にも思っていない。そこが轉倒している所以である。そのこととを、諂わずに知らされるのが真実に働きだというのである。

 しかし、事実を指摘するだけでなほんとうの真実にはならない。真実とは、同時に、そのものの実となってくださるのである。つまり、真如背反し、轉倒している衆生さえも、わが身こととして、その身になってくださって、摂め取って、この上ない悟りに入らせるというのである。

 如来さまの真実の功徳とは、地獄行きを地獄行きと、ありのままに示してくださると同時に、そのものをわがことして摂め取って、浄土往生の身としてくださるのである。

 その真実功徳とは、南無阿弥陀仏であると、親鸞さまは示されたのである。その故に、真実功徳である「南無阿弥陀仏」に依るのだと。

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