驚きたてるこの弥陀は…
Y家の家庭法座の夜は、博多しゃぶしゃぶ「あり田」での懇親会である。大サービスくださり、新鮮なお刺身やお肉が食べ放題。「無量寿」コースである。浅ましい身には、殺生はうまい。
二次会は、そのAさんの恩人で、法座にも参加してくださるUさんのバーへ。なんとかと一足飛びにはいかないので、搦手からご縁を結んでおられるのが、よく分かる。ここでも、偶然、知人の方が座ってくださり、重ねてお酒を酌み交わして、賑やかに時間が過ぎた。
翌朝、Yさんのご法話は、六道輪廻の中でも、三悪道の地獄界、つまり欲界最底下の八大地獄のお話である。そういえば、昨晩だけでも、等活地獄行きの悪業である殺生の罪を喜んで犯し、叫喚地獄の罪業である飲酒(おんじゅ)を犯し、大叫喚地獄のた
ねである酔って好きなことを言い合い、妄語の罪を重ねたのである。しかも、なによりも恐ろしいのが、そのことについてまったく無自覚でいることだ。いのちを慈しむ目から見れば、殺生はおぞましく、静かな修行妨げる飲酒も恐ろしいものなの
に、凡夫が狂い、轉倒(てんどう)している証拠は、それが楽しくして仕方ないといのうだがら、この迷いはあまりにも深い。
ところで、その後の座談会で、ある方が、ご自分の妹さんの悲惨な現状を詳しくお話くださった。内容には触れられないが、テレビの悲劇ドラマさながらの悲惨な状況に置かれておられる。皆さんも、固唾をのんで聞いておられたが、最後に、「妹家族にすれば、いまが地獄です」と結ばれた。たぶん、世間の方ならそう思われるだろう。しかしである。確かに、地獄の「ような」状況だが、けっして地獄ではない。この世に、地獄のたねも、餓鬼のたねも、畜生のたねも、確かにある。しかし、どんなに苦しくても、ほんとうの「地獄」ではないのだ。なぜなら、たとえば等活地獄では、粉々になって死んだ罪人が、獄卒の「活、活」の声で、元通りにとなり同じ苦しみが、業が尽きるまで延々と続くのだから、自死でも逃れられないのである。そして、その地獄も、餓鬼も、すべて私の後生は、今の私が自ら造る化生の世界なのである。
「一たび人身を失いぬれば、万劫にも復せず」という一大事が、ここにある。
そして「南無阿弥陀仏」ひとつで、その迷いの世界を超えていく道があることも、ご法話で触れてくださった。南無阿弥陀仏
そなたがすわる足もとに 八大地獄の業の火が
驚きたたぬそなたより 驚きたてるこの弥陀は
血潮に染まり紅の 紅の身のくだくるも
立ちづめ呼び詰め招きづめ
こいよ、こいよ 出でこいよ そのままこいよ出てこいよ
(大悲の呼び声)
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