「浄土五祖伝」~懐感法師~
法然さまの『浄土五祖伝』も、曇鸞、道綽、善導のビック3が終わって、もっともマイナーな懐感大師である。真宗では、懐感禅師と呼ばれているが、源信僧都とセット(『往生要集』の引文を重視される)で現れる方だが、ほとんど知られてはいない。それでも、ビッグ3の後、「後善導」の「法照・少康」でなく、「懐感・少康」という流れを、法然さまはとられている。
浄土宗の正統性を示すめたにも、聖道門のそれぞれ(たとえば、天台宗や真言宗、法相宗にしてもそうだ)に、次第相承がある。それは、浄土宗においても、血脈があるというのである。この場合の血脈は、浄土真宗でいうほんとうの親子関係ではなく、法脈が正しく継承されていることを、親の血が子に受け継がれるという意味で、使われている。法然さまは、中国の浄土念仏の流れを「慧遠法師」「慈愍三蔵」「道綽-善導」の三流ととられおられるが、もちろん、法然さまが流れは「道綽-善導」流である。
その中にも師資相承に2系統があり、いずれにも菩提流支三蔵から始まっているが、法然さまは、(菩提流支三蔵→)「曇鸞→道綽→善導→懐感→少康」の浄土五祖とされたのである。
さて、懐感法師である。ほぼ同世代の少康の『瑞応伝』と、その200年後頃に書かれた『宋高僧伝』が収録されている。
細かな点は異なるが(当然のごとく後のものが詳しい)、ほぼ同じ内容である。
だいたいをまとめると
1)出生地、正確な出生年、俗称などは不明。
2)長安、千福寺に属し、法相唯識を学びも、念仏は信せず。
3)善導大師に出会い、疑問を問いて氷解し、帰浄する。(善導さまの直弟子)
4)三七日(21日間)、道場で念仏修行するも霊瑞を感得できず、自らの罪深きことを歎いて断食し自死しようとするが、善導大師に誡められて奮起。
5)3年間、念仏三昧を修し、ついに三昧発得の境地に至る。
6)その後『釋浄土群疑論』七巻を顕す。(死後、弟弟子の懐惲(えうん)が完成させる)
7)臨終に来迎があり、西に向い合掌しご往生。
といったものである。
加えるならば、則天武后の時代で、王朝の内部にも近く、則天武后の命で始まった経典の目録編纂をする「校経目僧」として活躍している。
『群疑論』では、当時、浄土念仏と大衆教化で競合して、盛んだった「三階教」を強く批判し、後に三階教の経典は禁書扱いとなる。
一方で、玄奘三蔵によって法相唯識が全盛期だったこともあり、当初は法相唯識を学んだこともあって、その教えを演繹して、浄土念仏の正当性を述べているという。というのも、いまでこそ、善導さまは正統であったように思われるが、当時は、他の浄土教に比してもまだまだ新興の傍流で、他の批判も多くあり、その正当性を述べたかったのだというのである。
ほぼほお名前しか知らないお方だったので、ひとつひとつが勉強になりました。
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