高山支部報恩講~自策自励~
華光会の高山支部の報恩講も、すでに20数回を数えている。
支部の高齢化が進んでいる。20年前、20代や30代だった人達も、すでに40代後半から50代になっているが、「そのあとは?」となると、後継者がいないのが現状だ。最高齢の満九十九歳のおばあちゃんを筆頭に、九十代、八十代の後半の方も増えている。体調や病気の関係で、この1、2年でお顔をみることがなくなった方もある。その意味では、無常の現実を、まざまざと見せられるようになった。
昨年からは、夜のお斎もなくなったこともあるが、人数も報恩講にしては、ちょっと寂しい気もした。
それでも、新しい方へ働きかけておられて、今年は、書家をされている男性が、初めて御参りくださった。前回は、高山別院にお勤めの方の御参りがあったが、その意味では、少しずつだが新しい息吹もある。そして、高校生のYちゃんも、大人のご法話を拝聴し座談会も出席してくれた。
悟朗先生は、善導大師の「おのおの聞け。強健有力(ごうごううりき)の時、自策自励(じしゃくじれい)して、常住を求めよ」の『往生礼讃』の御文をよく引かれた。そして、元気なうちに、仏法を聞く、もしくは聞いてもらうためのに、自策自励して、つまり各々が自らでその工夫して勤めさせていただかねば、勿体ないということを仰った。いまも、華光会館の3階には、この「自策自励」の揮毫を掲げている。
生活(生きる活動)のためではなく、何のための人生なのか。あれもこれもの大切なものの一つとして仏法や念仏があるのでもなく、また、仏法を一番にするという比較の順番でもなく、私の生活も人生も、すべてを包む形で、お念仏があり、仏法があるのだ。人生の中で念仏を求めるのではなく、逆に、念仏の大局にたって、わが人生眺め、生活を考えたならば、念仏申すための生活であり、そのための人生であることに気付かされるのである。ならば、その視点から、仏法を中心にした、念仏を申すために人生を、そして毎日の日常をどうすればばいいのかを、常に考え、工夫させていただけばよいのである。
今年の華光大会で、うかうか聴聞していると思わされた。が、聴聞の時だけではい、日常生活も、うかうかと無駄に過ごしていないか。南無阿弥陀仏
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