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広島支部法座~人身受け難し~

  「法に遇う」をテーマにしたご法話。
 今回は、御文を載せたプリントを作ったのでちょっと分かりやすくなったのではないか。

 いま作製中の増井悟朗先生の『法に遇う』からのご法話である。今年の華光大会での増井悟朗先生の一周忌の集いでお配りするために、昭和59年の58歳の時の誌上法話に手を加えたものだ。当然、その通りとはいかないので、同一テーマでのご法話ということだ。

 法話では本にはない、「つめの先の砂」の話もした。釈尊と阿難尊者の問答。数多い衆生の中で、人間に生まれることは稀であり、ましてやその中で仏法を聞くことはますます難しいことだという、おたとえである。

 座談会では、「礼讃文にも『人身受け難し、いますでに受く』とあり、受け難い命をいただいいる不思議とはよく聞きますが、それをもったいないという実感がありません」と仰る方があった。

 うわべの味わいならそのまま当たり前とスルーしていくが、改めてそう言われれば、日常の生活は発言通りではないか。普段は、みんな自分の力で、精一杯生きているわけである。そして生きること自体が辛いという方もあれば、中にはこの世に生まれてきたのも、別に望んだわけではないといわれる方もある。結局、何事も当たり前だと思っているのだから、当然、愚痴は出る、不平不満の毎日を、うつうつと過ごしているが現実ではないか。仏智からみれば、いま、私がここにいることは、実は有り難く、ほんとうは稀なることなのだか、凡夫の私にはそれが分からないというのである。まして仏法を聞くことの難しさをやである。

 真実が真実と認識できない。だから、迷っているのだといわれる。

 実感がないということは、その真実を知らないということである。知らないのならどうするか。よく知っておられる方から、真実をお聞かせいただくのである。それも、出来る限り、わが身に引き寄せて、具体的に聞かせていただくのだ。「おれがおれが」で我武者羅に生きているが、実は、何一つとして自分ひとりの力で成り立っているものはない。今日、ここまで生かせていただくには、どれだけの命を犠牲にし、大恩を蒙ってきたことだろうか。そしてそのことを忘れぱなしで、まったく実感もないほどの迷いが深い、ご恩知らずの私であることを聞かせていただくしかないのである。

 阿弥陀さまは、そんな私をしっかりとみそなわし、よくよく知ってくださっているのである。そこで生まれたのが、南無阿弥陀仏のお名号ひとつで救われていく道なのである。そこを聞かせていただくならば、私の側の感じなどには、まったく用事はなくなるのである。

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