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2016年11月の26件の記事

大阪支部報恩講

 大阪支部の報恩講法座。

11月に、華光会館で開いてくださるようになった。以前の大阪支部は、同人宅の持ち回りだったので、報恩講の担当家になると、お赤飯がでたり、お斎がでたり、お酒が出ることもあった。いまは簡素になってはいるが、大阪支部の集いとして相続されていることが、尊い。一同で『お正信偈』をお勤めし、最後には「しんらんさま」の仏教詩歌を歌って、そのお徳を偲んだ。

 法話は、華光大会や葬儀、日高支部報恩講や寺院布教で味わったり、出会ったご縁を中心にしながらも、最後は、聖人の九十年の歩みについてお話した。報恩講なのである、聖人の恩を講らかにし、そのご恩徳の一端にでも報いるさせていただきたいのでだ。特に、九月に聞法旅行で聖人の聖跡巡拝させていただいだけに、より身近に聖人の歩みが感じられるようであった。その中で、やはり親鸞さまと法然さまとの出遇い。そして、一歩踏み出して聞き開いてくださったことが、今日の私たらが幸せをさせていただく一歩だったのである。そのことは、華光大会のご満座でも、また日高でも古老の態度でも、今日の華光の伝統して息づいているように感じている。一歩踏み出して聞く、これが今日のテーマだったのではないだろうか。

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11月の華光誌輪読法座

  今月と来月で、十時先生の誌上法話を頂く。

  悟朗先生を追悼する華光大会の法話の前半部分。
 先生がよくご法話くだされた、如来の三身-法身・報身・応化身を、3種の和讃からお話くださった。「色もなく形もますまさない」法性法身から、形を現し、名を垂れて、報身仏である阿弥陀如来となって現れてくださったのである。しかし、それだけでは私たちにはまだ遠いので、今度は、インドにあって、釈迦牟尼仏という応身仏として、私たちの前に現れてきてくださったというのである。
 そして、その釈尊は、阿弥陀仏の本願を説くためにご出世になられた。普通、本願、本願というと第十八願のめに目をやりがちだが、機受の極要を示されたのが、釈尊の説かれた本願成就文である。ややもすれば、第十八願文の「称えさえすれば」というのに対して、伊藤先生や悟朗先生は、本願成就文に目をつけて、「聞」の一文字に、釈尊の開示解釈があるとお説きくださっている。その聞くことを力点におくのが、浄土真宗ではあるが、では何を聞くのか。その名号聞く。つまり名号に何が込められているのか、そのお心を聞くことが、私たちに大いに問われているというのである。

 輪読法座は、ひとりひとりが読み勧める方法から、みんなで音読する方法に変えた。できるだけ、自分が持ってきた問題ではなく、まず法話の言葉を味わところから、分かち合いを始めたいという思いには変わりはない。

 最近は、参加者が少なくなっている。うちの家族も3名を含めても10名ほどなのが寂しい。

 次回のお知らせ

 12月17日(土曜)昼13時30分~16時30分

 少人数なので、いろいろな質問も気軽に出来ます。75巻4号の誌上法話「誰のためのお救いか」の後半を、みんなで声に出して読みながら、みんなで味わっていきます。内容的にも、より味わい深い部分に入ります。どうぞ、奮ってご参加ください。

 

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阿弥陀如来の化身

   法然聖人の『漢語燈録』に収録される「類聚浄土五祖伝」。第3番目の善導大師に入って、5回目だ。善導さまは、6種類の年代の異なる高僧伝に収録されているが、今回は、8世紀末~9世紀頃(9世紀末説もある)、つまり善導さま没後100年頃に著わされた、(善道)・道鏡著の『念仏鏡』と、1162年(善導さま没後、約500年後)に著された王日休の『龍舒浄土文』を読んだ。

 これまでにない伝記やエピソードが面白かった。

 『念仏鏡』は、善導さまが、金剛法師(宗派不明)という方と法論され、念仏が優れていることを顕されたエピソードのみである。
  善導さまは、お念仏すれば、必ず往生すると主張されるのである。その証明として、高座の上から、もし念仏往生が真実なら、このお堂の仏像から光を放たたしめよ。もし念仏往生が虚妄で、浄土に往生できず、衆生を誑かすものなら、今すぐこの高座の上から、私を大地獄に墮とさせよ。永年に渡り苦を受け二度と浮かび上がることはないだろうと、願かけをされるのである。そして、如意杖でお堂の仏像を指すと、そのすべてが光を放ったというのである。

 そして、王日休の『龍舒浄土文』は、これまでの高僧伝・往生伝を伝承する形で、新しい事実はすくない。それでも、2、3面白い記述が含まれている。

 まず、善導さまの「勧化徑路修行頌」という42文字の偈文というか、頌は尊い。老の現実と、たとえ家にお金が満ちても病からも逃れられず、どんな快楽もついには無常(死)が到りくる。だから、徑路(狭い道)の修行、ただ「阿弥陀仏」を念じる(称え)よ、というのである。

 また捨身往生は継承しながらも、「この身し厭ふべし、吾、まさに西に帰らんとす」と、遺言されたというのである。「西に帰る」、つまり阿弥陀さまが帰っていかれるのである。

 そして最後に、宋の天台宗の僧、遵式の『西方略伝』を引用されている。そこには、善導さまは「阿弥陀仏の化身」だと明記されているのだ。

 これらが史実かどうかというより、善導さまの神格化ならぬ、仏格化が進む中で、はっきりと、阿弥陀さまの生れ変わりだと示されていることに、意味がある。なぜなら、法然聖人は、「偏依善導一師」として、『浄土三部経』のご解釈も、善導さまによっておられるのだが、それは、善導さまが阿弥陀さまの生れ変わりだからなのである。そのように、法然さまも、親鸞さまも、善導さまを仰がれ、頂かれているのである。そして、そのことを、後世の後輩たちにもお伝えしたかったのである。 南無阿弥陀仏

 

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紅葉にさくら

Img_7195_2  願寿寺の境内には、親鸞聖人と蓮如上人の祖師像がおまつりされている。お二人が並んでいるお寺は、ちょっと珍しい。

  お庭の紅葉もちょうどいまが見ごろか。

Img_7134_2 お寺の真後ろを走る中国縦貫道の下をくぐっていくと、お寺の裏山が神社がある。Img_7146紅葉を目当てにしていたら、珍しいものが咲いていた。

 桜である。Img_7188_2

 4月(春)と10月Img_7164_2(秋)の年に二度も咲く品種らしく、十月桜という表示があった。
 秋の盛りは済んでいたが、少しだけだが、また小さな淡い花をつけていた。

 紅葉をバックに桜の花。

 秋と春が同時に写ったような珍しい光景。
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願寿寺報恩講

Img_7192 例年、夫婦揃ってお邪魔している。ぼくより、連れ合いの方がご縁が長い。華光大会の都合で、12月の永代経法要の時が多いが、今年は報恩講さまのご縁となった。

2日間で、四座のご縁。それぞれににテーマはあったが、細かな教案は持たずにその場の雰囲気を大切にしながらお話した。やはり華光大会での尊い法縁、葬儀に、日高支部法座など、直前まで続いたImg_7197法座でのご縁が、種々に影響しているようだ。

 全体のテーマがあるとするならば、出遇うということか。これは、父の「法に遇う」をまとめたことが、心に残っているからだ。

 報恩講さまということで、改めて聖人のご一生に触れる。

Img_7198  親鸞さまが、20年の回り道の末に法然さまに出遇われ、そこで、100日間の聴聞の末、雑行を棄て本願に帰されたことが、(この世の中では)浄土真宗の始まりだといっていい。結局、法然さまという人との出遇いを通じて、遇い難く、聞き難い、弥陀の本願に出遇われたのである。そういえば、その弥陀の本願も、国王法蔵さまが、五十三仏の出現後にお出ましなった世自在王仏さまにお出遇いによって、発願されたのが出発点であった。

Img_7132 ならば私自身どうか。それは、父でもあり、師でもあった増井悟朗との出遇いを抜きには語れない。それは、説かれた内容以上に、法に対する姿勢、求道者と向き合う態度態度と垂れたそして、その父もまた、伊藤康善師と『仏敵』との出遇いを抜きには語れないとするならば、ほんとうに法に遇うことは、(私の側からみれば)「たまたま」としかいいようがない。しかし、如来さまの側からみれば、その「たまたま」には、多生の間のあの手この手の種々のご方便があったのだ。

 そうすると、いま、ここに集う人達とのご縁も、多生の縁である。たった一度のご縁の方もおられるかもしれない。それだけに、南無阿弥陀仏のお心を聞くご縁を大切にさせていただきたかった。

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丹波市の古刹(3)高山寺の紅葉

Img_6957  夕方になったが、もう一ヶ寺足伸ばすことにして高山寺へ。円通寺からは、それほど遠くないかった。

 賑やかだった前の2ケ寺と違い、拝観者も少ない。係の方も誰もいなくImg_6914て、志納金をお賽銭箱に入れるシステムだ。

 朱色の山門を抜けると本堂までの参道のImg_3034_2_2両脇は、灯籠とカエデが見事に並んでいた。

 天平年間の創建で、鎌倉時代に頼朝の命で、かの重源上人が復興したお寺Img_6920_2_3で、当時はたくさんの末寺を有する大伽藍あったという。 昭和にこの地に移築されたとのことで、まったく往時の面影はなく、ひっそImg_6927りとした佇まいだった。

 法座の帰路、駆け足だったが、丹波路の古刹を堪能することができた。まだこの地域だけでも、6ケ寺も残っている。もう少し早い時期ならいうことなかったので、次のチャンスがあれば、ぜひ再訪したいものだ。
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丹波市の古刹(2)円通寺の紅葉

Img_6911_2 丹波市氷上町の一帯には、紅葉お寺が点在している。

 その中のひとつ円通寺は、先の高源寺と並んで、丹波紅葉三ケ寺の一つだ。

Img_3027_2 ここは、まだ参道の紅葉がきれいだった。

  本堂に「施無畏殿」の扁額がかかる。観音菩薩の異名だそうだが、衆生の畏(おそ)れや悩みを無くそうという大慈悲を施すというImg_6875_2お心である。本堂では、涅槃図が開帳中だったが、釈尊の八相図も描かれImg_6879_2ていたが、すべてが中国風なのが面白かった。http://pleasantly.sakura.ne.jp/H27/H27osirase.html

ほかにも、明智光秀の直筆の禁制も展示されていImg_6860_2る。

 南北朝から江戸期までは、二百余りの末寺を有する大寺院であったが、その風格はあちこちに残っていた。

 本堂の裏手には、市の天然記念物に指定されている「いとざくら」と「たぶの木」の大木もある。四月には、桜は見事な花を咲かすのであろうが、いまの枝ぶりもなんともいえない雰囲気があった。
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  ≪↑市指定の天然記念物「いとざくら」≫
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  ≪↑市指定の天然記念物「たぶの木」≫
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丹波市の古刹(1)高源寺の紅葉

Img_6742_2_2午後からの予定が無くなったので、寄り道をして兵庫県丹波市にある古刹で紅葉を愛でることにした。

Img_6737_2 昼食を風情ある茅葺き屋根のお店で済ませて、まずは高源寺

Img_6753_2 兵庫県でも有名な紅葉の名所で、平日にもかかわらず観光バスでのImg_6779_2観光客も多かった。
 
 風情のある参道Img_2987_2の石畳に紅葉が積もっている。昨晩は強雨で、濡れた葉っぱで急な石段は滑りやすかった。残念なImg_3012_2がら、平年よりも1週間から10日間ほど紅葉が早いらしくもう見ごろが過ぎていた。

 それでも臨済宗Img_3024_2の古刹としての雰囲気があるお寺だった。

山門をくぐり、釈迦如来をおまつりする仏殿、方丈、そして多宝塔(三重の塔Img_2989_2か)も、初層がどっしりしていて、全体にずっくりした造りになっているのか印象的だった。内部は経藏になっていて、輪藏といわれる造りがそうだ。少し早ければ、ここを背景にした紅葉はすばらしいものだろう。
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日高支部法座

 今回も、夫婦で日高支部にお邪魔した。

 ここの法座に来るたびに、老苦、病苦、死苦から逃れることはできない厳しい現実を見せられる。刹那無常も、一期無常も身近に見せられる。支部法座すら難しいなってきている。今年は1座だけでもご縁を結んでくださった。少人数というだけでなく、信仰座談会もなかなか噛み合わない状態だが、ただ月忌参りもあるので、2日間をかけてお参りさせていただいた。

 月忌参りは、おひとりで対応くださるお家が多いが、家族中5名でお参りくださるところもあった。中学生のお子さんはイヤイヤの様子だが、短いがご法話まで聞いてもらえた。人生の実相を示した黒白二鼠のお譬えである。

 法座会所のS家に戻ると、さき程、脳梗塞で倒れながらも奇跡的に回復されているご主人を、娘さんたちお二人がリハビリ施設に送り戻ってこられた。子供大会からの仲間で、同世代の方々。一緒に勤行して、その後、親の介護話へ。母親の前でも、辛辣な言いたいことを言い合っている。ところが、そこに毒気がないのだ。だから、聞いてるほうも嫌な気分にならなずに、四方山話が楽しかった。

 次回は、50歳で往生された二人の間の姉妹の三周忌法要へのお参りの日程か決まった。淋しくはなるが、ご縁があるうちは、頑張りたいな。

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佐川美術館~三蔵法師展~

Img_6580_2  先日、琵琶湖大橋にほど近い佐川美術館に出かけた。今年の3月にも初めて訪れたが、今秋は、特別展として「三蔵法師展~薬師寺の宝物と共に~」が開かれているのだ。

 日本画の平山郁夫館、彫刻の佐藤忠良館、そして陶芸の楽吉左Img_6544_2衛門館の3つを柱として、常設されている。特に平山郁夫画伯の作品は、仏教伝来や東西交流の道であるシルクロードをテーマImg_6584にしたものであるが、その中でも、特別展に合わせて「玄奘三蔵~求道の軌跡」と題されていて、インドやシルクロード、中国などの三蔵法師が旅をされた各地が描かれると共に、三蔵法師が中国に持ち帰って唯識、法相宗として栄えImg_6601_2た奈良の薬師寺などが題材になっていた。ぼくも訪問した場所が多くて懐かしくもあったし、量、質共に見応えがあった。

 そして、三蔵法師展の方は、以前、龍谷大学ミュージアムで、「玄奘~迷いつづけた人生の旅路」(仮題は「玄奘三蔵と薬師寺」)で観覚えのあるものImg_6600が多くて展示されていた。http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-f48c.html
  巡回展ではないので、まったく同じ企画ではないかったが、薬師寺の宝物が中心ということで、どうしても似たような企画になっていた。

Img_6588 でも改めて、三蔵法師玄奘さまのすごさを再認識させられた。17年間にわたり、30,000㎞以上を旅して、当時の国Img_6604_2で130ヶ国に渡る国々を訪ねて、多く経典や仏像を将来した。しかもそれだけでなく、その後20年をかけて、1335巻もの経典翻訳に邁進し続けるのであるから、もう超人としかいいようがない御方である。その翻訳事業にもしても、翻訳は正確を究めているので、玄奘さまの以前と以後では、その名称も代わっていくる。その以前である鳩摩羅什三蔵さまなどは旧訳(くやく)と呼ばれ、玄奘さまからは、新訳(しんやく)といわれるほどである。こんな三蔵法師さまの命懸けの活躍のおかけで、仏法は東漸しますます盛んになっていくのである。
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        ≪佐藤忠良氏の蝦夷鹿↑≫

 

 

 

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「カウンセリング手引き」~どんなカウンセリング技術があるのか~

 真宗カウンセリング研究会の「月例会」で、西光義敞先生の『育ち合う人間関係』を読んでいる。「カウンセリングの手引き」である。これが元になって名著『暮らしの中のカウンセリング』誕生している。

 今月は、「どんなカウンセリング技術があるのか」の章だたが、とても勉強になった。

 来談者中心アプローチでは、技術に走るよりも、その根底にはカウンセラーの態度が大切になってくる。つまり、技術は、本質的条件-カウンセラーの無条件の積極的尊重や共感的理解を、クライエントに伝える通路ちなることができるときにのみ、重要な意味をもつということである。どんな技術を用い、また応答をしようとも、カウンセラーの純粋で、受容的な、そして共感的な経験や態度が、クライエントに通じることが大切だというのである。同じ技術でも、逆の経験や態度を伝える場合もあるということだ。
その点を念入りに押さえた上で、場面構成やあいづちの打ち方、内容の繰り返しなどについて、具体例を豊富にあげて、分かりやすくお伝えしてくださっている。

 その中で、「感情の反射」や「感情の明確化」という項目の中に、「感情の明確化」といっても、「問題の明確化」や「内容の要約」とを混同してはいないかという指摘である。カウンセリングの焦点は、話し合われる話題にあるのてはなく、話題に対するクライエントの感情や態度にあること。時間的、空間的に果てし無く広がる可能性のある話題を追いかけて、まとめることが大事ではなく、いろいろな事柄を話題にのせて問題にするクライエントの「いま、ここで動いている感情」を受けとめ、明確化し、反射することが大事であるというのだ。

 改めて、問題の要約や明確化でまとめて、聞いた気になっていた、自分の聞き方の誤りを教えられたのである。

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葬儀

 葬儀会館は、マンション1階にあった。僧侶にも親族にも控室のない小さな会場だ。家族葬とのことだったが、会場は一杯である。

 小さな会場でよかったのは、他に葬儀の予定はないことだ。火葬場の時間にさえ気をつければ、後は、自由にさせてもらえる。そこで、通夜も、葬儀も、開始前に一言、参列の皆さんに、「故人に一番近かったのは皆様方であること、それで、南無阿弥陀仏と口にだしてお念仏を申すこと、そして、一同、心を合わせて読経してください」とのお願いから入ることが出来だ。そして、通夜だけでなく、葬儀でも(短いながらも)ご法話させてもらえた。還骨勤行の後もご法話があるのだから、ご法話だけでも3回の機会があった。他にも、お斎がでた時は、全員に、故人を偲ぶ思い出を一言もらった。

 それというのも、故人が、子供のころからの念仏を求めておられたからである。ご両親に連れられて、横田慶哉師の流れを汲む法座で聴聞してこられたのだ。そこには、若くして人生が苦の連続だったのである。しかし、そのことが機縁となって、生涯、仏法を敬う人生を歩まれて、華光とのご縁も生まれてきた。9月に経緯を詳しくきいてきたので、その故人の願いを伝えるという意味でも、法話はやりやすかった。喪主の娘さんたちもその意志を継いでおられるのだ。そして、その法話を、一番、喜んで聞いてくださったのがお二人のお父様で、いろいろとお味わいを語ってくださった。これから、仏縁が結ばれることを願っている。

 斎場の方も、通夜では、「お導師さまにあわせて、合掌、礼拝ください」というアナウンスだったが、葬儀では、「お導師さまにあわせて、合掌し、南無阿弥陀仏とお称えください」となり、また「これからお正信偈のお勤めです。聖典の4頁を開いてください」と、こちらから頼んでいないのに、積極的に協力くださった。小規模だった分、柔軟に対応してくださった。もちろん「お清めの塩」もなかった。結局、僧侶側がしっかり伝え、対応していければ、葬儀はいくらでも変えていくことができるのだろう。

 合掌-礼拝があるのなら、「南無阿弥陀仏」と称名念仏することをお勧めしてもらいたい。必ず、ではなぜ「南無阿弥陀仏」と称えるのか、という法話につながっていくからだ。 

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「またね」はない

  大会翌日、同人のお通夜のために宝塚に向かう。

 華光大会の最終日、ご満座の道場は、お念仏の渦となった。ところが、その時会館に電話がかかていた。同人の訃報で、葬儀の依頼だ。伝言を聞いたときには、耳を疑った。9月末に、ご自宅にご示談に窺ったばかりなのだ。最近は、ご法座は疎遠となりながらも、体調を崩されたことをきっかけに後生の不安が募ってきたのである。京都に来るのが難しいほど、(精神的にも)弱っておられので、何度かのやりとの末にこちらからお邪魔すくことになった。もう力なしになっておられた。ところが、「ご示談の前に、仏書を読んだほうがいいすか。法話テープがいいですか」などと聞いておられた。「力なし」なのに、自力はピンピンしていた。

 お話を聞くために体力をつけることも大切だ。今生の上でも元気になってもらいたいと、信頼できる病院を紹介した。内蔵の病ではないので、免疫力さえ高まれば、症状は改善し、きっと元気になられると思っていた。実際、気持ちも少し前向きに明るくなっておられて、少し安心していたのだ。その報告で、また家庭法座を開きたいとの話も出ていた。

 ところが、心配されていた病気ではなく、入浴中の突然死で、60代とまだお若い今生の命が、終わったのである。無常の理は、仏説まこととただ頷くばかりである。9月以降のご縁もあり、後に遺された二人の娘さん方の仏法相続を願い、葬儀の依頼を受けることにした。

 しかし、元気な内に仏縁はかなわなかった。
 「また」はなかったのである。

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華光大会(4)~薄皮一枚が破れる~

 3日間、法水に浸かる。日頃、いかに不法・懈怠に生きているのかを痛感させられる。

 先生のご法話以上に、お同行方の態度に触発される。初日のご法話にあったように、先生が同行を育てると同時に、同行がまた先生を育てていくのである。昔は、厳しいお同行がたくさんおられた。いまは、みんな物分かりの言い、優等生になっている。といって、昔を懐かしんでも仕方がないことだ。今は、今の仏法の喜び方、態度というもがある。でも、時代が移り変わっても、お同行の力は大きいと思う。

 ところで、たまにご法の厳しさを勘違いかれている方ある。人の嫌がることをかまわず、上から強く迫ることが厳しさだと勘違いされたり、受容的に聞く態度は、甘くて生ぬるいと思っておられる方がおられるようだが、実はそうではないと思う。

 ぼくは、ご法の厳しさとは、どれだけ自己を正直に開いていくことができるかが、肝要だと思う。今、ここの、自分でしかないことは、信・未信に関わらない。同時に、そこでしか両者は出会うことはできない。そうすると、相手に迫らなくても、まず自己がどれだけ開いて、その場におれるのか。そんな同行が、たったひとりおられるだけで、分級座談会の雰囲気はまったく変わる。今回でいえば、2日目の朝や、3日目の座談会がそうだった。

 分からないことを分からないと率直に問い、うれいしことはうれしいと分かち合って喜ぶ。不審があれば、頭を垂れてお聞かせに預かればいいのである。その時に構えることも、飾ることもない。全力でぶつかっていければいい。そんな方に触発されるように、座談会は随分、熱くなった。

 ご満座の道場は、その方の促しと、それに応えて、重い腰をあげられた一歩出た方があった。しかしまだまだ自力で一杯である。ところがである。その菩薩ようう態度や姿勢に心を動かされる方がいるのが、ご法の不思議である。輪の中から突然、号泣念仏が始まる。誰かが勧めたわけではない。ご法のやりとりを中で、まったく自然に、自らのご信心の薄皮一枚の不審を破っていかれたのである。そこには、ただただ「申し訳ありませんでした。不審がありました」と頭を畳みに擦りつける懺悔と、その口ついて溢れ出る「南無阿弥陀仏」しかない。後は、ただ涙と鼻水である。

 仏法には私が微塵も握ったり、囲ったりするものはないのである。底抜けに喜べる仏法なのだが、わが胸に、一抹の不安や誤魔化しや飾りはないか。善しになるこめに、念仏をしてはいないか。そんな薄皮一枚の不審が他力のお働きによって破られていく瞬間を共にすることができた。

 まったく尊い時間でありました。
 
 

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華光大会(3)~善知識との出遇い~

  中日の昼座は、増井悟朗師の「一周忌の集い」単なる偲ぶ会ではなく、悟朗先生からご教化をうけた多くの同人の皆さんと共に、そのみ教えを再確認し、今の私に生きている働いてることを喜び分かち合った。
 
 第一部。法要の後、79~81歳の悟朗先生の華光大会の法話DVDを再編集したものを拝聴した。録画されたものだが演台に置かれたスクリーンを、しかも皆さんと共に拝聴すると、実際に、直接、ご法話をいただくような錯覚さえ覚えた。厳しくお取り次ぎくださる姿は胸に迫るものがあった。その後は、「如是我聞」~私は増井先生からこのように聞きました~と題して、70~80代、60~40代、そして20~30代の各世代を代表して3名の老若男女が登壇された。悟朗先生から聞いたところだったり、先生との出会いを語られるのだか、話者の人柄も滲み出るのが不思議だ。これは、第2部で「語り合いの集い」でアルコールを交えながら懇談としてお聞かせいただいた、同人の声にも共通するものだ。
  さまざまな言葉やエビソードがこころに残ったが、
 
「先生は、まだ子供だった私を一人前の同行として扱い、真剣にご法を説いてくださいました」。

 という子供時代からご縁のある方々が異口同音に語ってくださったことだ。実は、まったく僕自身も体験し感じたことだからだ。

 年齢は子供かもしれない。しかし、ご法の上では、大人と同じく昿劫から迷ってきた身である。業魂の闇に変わりはないのだ。しかも、老少不定の無常の身であるのは、仏説の示すところ。だから、ご法に向うものには年齢に関わらず、居ずまいを正し、命懸けでご法を説いてくださったのである。それが、4歳の子供であってもである。

 結局、私たちは、増井悟朗という凡夫の形を通して、その姿勢や態度から弥陀の本願を、全身でお聞かせに預かってきたのであろう。そして、命懸けで、いま、生きて働く弥陀の本願をお伝えくださった善知識に出遇えたことが、なんと幸せなのことであったろうか。南無阿弥陀仏

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華光大会(2)~若手女性講師~

 今回のご講師には、2名の若い女性(20代と30代前半)が、ご法話くださった。

 ひとりは、4月には地震に遭い、8月にはお父さま、そして最近、大切な友人を亡くされた先生からは、無常の厳しいご催促を現実に即して涙ながらにお話くださった。それでも、「ご往生おめでとうございます」と伝えることができた仏法の上でも親子であったことは深く心に残る。

 もうひとりは、先頃、伝道院を修了して布教使となったばかりのRさんの、大人向けの初法話がういういしかった。悟朗先生の教えを通して、すべてのものが私に仏法をきけよというご催促であって、おかげでないものはない。深いご恩ということお聞きした。初めてで、緊張したであろうが、なかなか堂々とした態度だった。

 お二人の若い先生方が、揃って仏教詩歌を歌ってくださったのも、印象的であった。このあたりも女性ならではか。

 けっして平坦な道のりだけではないだろうが、これからの活躍が楽しみだ。 
 

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華光大会(1)~教えを持ち替えるな~

  今年も、3日間の華光大会が始まった。

 初日のご法話で、座談会では、「ご講師が一番言いたかったこと(いわばご法話のテーマ)を確認してほしい」とのお話があった。せっかく法話を拝聴しなから、後の座談会での感想を語るとき、自分に引き寄せた感想が中心になっている。それでは、ただ教えを持ちかえているにすぎない。別に、法話を暗記せよということではなくて、ご講師が一番伝えたかったところに焦点をあてて聞くことの大切さを教えてくださった。

 華光には座談会がある。その時、みんなが共通していたいだ法話があるのだがら、それをさらに深めて味わっていくことを中心にしている。そのために、内容やテーマの確認にしていたことがあるが、最近は、もっばら感想が中心になっていたので、改めて原点に戻ることになった。

 3日間、この課題を通して行った。

 簡単なようで、これがなかなか難しい。どうしても、自分の感想が交じる。そして、自分が持ってきた問題にすり替えわたりしても気がつかない。

 決して、正解を覚えたり、言えたからえらいというのではない。聞き違いをしていたならば、それを糺してもらえばいいのである。いや、凡夫の聞法は、聞き間違いしかないのである。ならば、わが胸に収めて分かっことにしないで、勇気をだして言葉にし、誤りを教えてもらうことこそが、ご聴聞ではないのだろうか。

  結局、浮かび上がってくるのは、うかうかといい加減な聞き方をしている自分自身だった。

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ゴミ処分

    華光大会を前に部屋が片づいた。行事があるとか、来客があるということは、その意味でも有り難いことである。
 
 大型ゴミをかなり処分した。

 伏見横大路にあるクリーンセンターに持ち込む。
 
 いろいろと処分するものがあった。捨てる前は惜しい思っているものばかりだったが、どんどん投げ捨てていく作業は、気持ちのいいもので、すっきりする。

 100㎏までは、1000円。それ以降は、100㎏以降ごとに、1500円、さらに600㎏を超えると、100㎏以降ごとに2000円と、割高になる仕組みだ。自家用車に乗るだけなので、100㎏を超えることはないだろうと思っていた。ところが、計量の結果は153㎏もあった。200㎏までは、あと50㎏は捨てられたのだか、たた1㎏のオーバーでも、1000円から2500円になることを思うと、わりとうまく捨てられたのではないか。

 しかしである。捨てたものはほんの一握り。残ったもの、整理のつかないものはどうするのか。「押し入れ」に押し込む、押し込めないものは、布をかけて隠すのである。それで、きれいになった思っているけれど、ほんとうは違う。ちゃんと整理して収納するのか、捨てない限りは、ただ誤魔化しているだけである。

 凡夫のご聴聞、自力のこころの扱いと同じではないか。隠したり、被せたり、要は目の前から隠したら、無くなったと勘違いしているだけではないかと。

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11月の聖典講座~『大経』の流通分(2)~

二、そして、いかなる困難も超えて聞くことを勧められる段が続く。
 すなわち、それほどの大功徳の教えなので、たとえ大千世界を焼きすつく猛火のような困 難を乗り越えてでも、この教えを聞くよう諭される。ここも、

*「たとひ大千世界に  みてらん火をもすぎゆきて
 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり」               (『浄土和讃』五六一頁)

と有名なご和讃で示しておられる。

三、さらに、特にこの経を末法の後までも留めると示す(特留此経)段である。
 まず、教えを聞き求めることを勧め、疑うことを誡めされた後に、慈悲心をもって、経道滅尽の後も、百年間(人間の寿命であり、満数で、永遠と頂く)、特に此の経=弥陀の本願を説いた『大経』は留めおくことを示される。聖人はたびたび引用されるが、和讃のみをあげていく。

正像末の三時
 正法-五百年- 教・行・証
 像法-千年-- 教・行・×
 末法-一万年- 教・×・×
 法滅-経道滅尽×・×・×『大経』以外の釈尊の教えは龍宮へ

*「末法五濁の有情の  行証かなはぬときなれば
 釈迦の遺法ことごとく  龍宮にいりたまひにき」
*「正像末の三時には   弥陀の本願ひろまれり
 像季・末法のこの世には 諸善龍宮にいりたまふ」
*「像末五濁の世となりて 釈迦の遺教かくれしむ
 弥陀の悲願ひろまりて  念仏往生さかりなり」
 (『正像末和讃』六〇三頁)

四、最後に、四難をあげ信心を勧める段で締めくくられる。
 この経を聞き信じることが極めて難しく、「難中之難・無過此難」だと強調し、重ねて教えを信じる(他力によって)ことを勧めて、『大経』の釈尊のご説法は終わるのが、象徴的である。

(1)如来の興世に値ひがたく、見たてまつること難し。
                                                       --(値仏の難)仏
(2)(a)諸仏の経道も得がたく聞きがたく  --(聞法の難)法
  (b)菩薩の勝法・諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し
(3)善知識に遇ひ、法を聞き、よく行ずること、これまた難しとす。
                         (遇善知識の難)僧
(4)もしこの経を聞きて信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん。           (信楽の難)

 そのおこころを聖人は、次ぎのように『浄土和讃』に示されている。

*「如来の興世にあひがたく  諸仏の経道ききがたし
 菩薩の勝法きくことも   無量劫にもまれらなり」
*「善知識にあふことも    をしふることもまたかたし
 よくきくこともかたければ 信ずることもなほかたし」
*「一代諸教の信よりも    弘願の信楽なほかたし
 難中之難とときたまひ   無過此難とのべたまふ」
     (『浄土和讃』大経讃・ 五六八頁)

*「弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 
 信楽受持甚以難 難中之難無過此」
     (『行巻・正信念仏偈)

 以上で釈尊のご説法は終わる。短いが、聖人の和讃や引文をみても、たいへん重要な段であることがわかる。
 最後はお経の結びで、形式的な形をとるが、一応二段に分けてみると、
(2)聞経得益【四八】の前半
(3)現瑞衆喜【四八】の後半

となり、(2)まず教説を聞いた者のご利益をあげられ、
(3)最後に、天地が四種の奇瑞を現して、この経典の真実であることを証明し、大衆が歓喜したことが述べられて、『無量寿経』は結ばれているのである。

 一応、これで『大無量寿経』は終わったが、12月は、もう一度、全体を振り返り、いくつかの問題点を取り上げてみようと思う。

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11月の聖典講座~『大経』の流通分(1)~

 聖典講座の『大無量寿経』も26回目。2年半進めてきて、いよいよ最終回である。

 ところで、経典は、序論にあたる「序分」、本論にあたる「正宗分」、そして結語にあたる「流通分」の三段で構成されている。前回で、お経の本論、要の部分である正宗分が終わり、今回はお経の締めくくりである流通分を窺うのである。
 流通分とは、この経を流通させたいという結びだ。すなわち、『大経』の説法こそが真実の教えだから、後の世に末永く伝え弘通してほしい、という釈尊の願いが、弥勒菩薩に委嘱(弥勒付属)されて、『大経』の説法が終わるのである。この「流通分」を、(1)弥勒付属(付属流通)・(2)聞経得益・(3)現瑞衆喜の三段(現代語訳本では二段)に分科して窺った。

 その中心は、(1)弥勒付属(付属流通)【四七】だ。『大経』の最後に、釈尊が弥勒菩薩に『大経』(つまり弥陀の本願)を委嘱される説法とあって、親鸞聖人がさまざまに引用されて重視されていることが窺える。

 ところで、「弥勒への付属」だが、弥勒菩薩は、五十六億七千万年後に、釈尊の後に現れて三会の説法(龍華三会)で衆生済度される未来仏である。その弥勒菩薩に、この『大経』を付属(委嘱)されて、後世にも流通(流布)されることが説かれている。正依(魏訳)には、わざわざその文言はないが、他の後期無量寿経には、以下のように示されているのである。

*「今、この法門を汝に付嘱す。まさに愛楽修習すべし」(『如来会』大経異訳)
*「また、実にアジタ(弥勒)よ、わたしはこの法門が滅亡しないように、大いなる付嘱(委嘱)をするのだ」(『サンスクリット本の大経』岩波文庫)    

たいせつな段なので、四段に細分化して窺っていくと、

一、まず「六字名号のご利益を示す段」がある。
 釈尊が、弥勒菩薩に対して、阿弥陀如来の名号、すなはわ南無阿弥陀仏のおいわれを聞信し、そして一声でも称名念仏するものは、この上ない功徳が得られることが、短いに説法の中で最後に説かれている。

 ところで、この「乃至一念」については、親鸞聖人は、「遍数の一念」(ひとこえの念仏)、つまり行の一念としてとらえらおられる。一方で、成就文の「乃至一念」は、信の一念である。それを簡潔に図式すれば次ぎのようになる。
 信の一念-時剋の一念(信心開発の窮まり・ひとおもいの信心)               成就文一念
      -信相の一念(二心(疑心)なき信心)
 行の一念-遍数の一念(ひとこえの念仏              流通分一念
     -行相の一念(ただ念仏ひとつ・他の行を並べて修さない)

 「遍数の一念」については、

*「行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す。」(『行巻』一八七頁)
*「いま弥勒付嘱の「一念」はすなはちこれ一声なり。一声はすなはちこれ一念なり。一念はすなはちこれ一行なり。一行はすなはちこれ正行なり。正行はすなはちこれ正業なり。正業はすなはちこれ正念なり。正念はすなはちこれ念仏なり。すなはちこれ南無阿弥陀仏なり。」(『行巻』一八九頁)
*「「歓喜踊躍・乃至一念」といふは、(中略)「乃至」は、称名の遍数の定まりなきことをあらはす。「一念」は功徳のきはまり、一念に万徳ことごとくそなはる、よろづの善みなをさまるなり」(『一念多念証文』六八五頁)

などと示して下さっているのである。(つづく)

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申し訳ございません

 朝、聖典講座の準備をしていた。早くレジュメを造らないと少しあせり気味。
   F君から電話。聖典講座のことだろとう思っていた。

「10時30分になりましたが、お待ちしています」

「?」

「今日は叔母の年忌法要でして、、」

「? !! ああ!」 

 そうだった。そうだった。お盆参りの時に、「聖典講座がありますが、10時からなら大丈夫です」と、時間までこらちらで指定しておきなから、すっかり忘れていたのだ。「すみません。すぐに窺います」と、大慌てで準備し、F家へ直行。幸いなことに、車なら3分ほどで到着する。しかし、50分も大遅刻だ。ご親戚の中に、「帰りの時間もありますから」といわれる方もある。「申し訳ありません」と平謝り。

 何かミスがあったなら、「サービスして多めに入れておきます」とか「おまけしておきますね」ということは、世間では当たり前。ところが、勤行は逆で、「早めに、短めにしておいてください」と仰られた。「いえいえ、遅れたお詫びに、長めに経典をあげますよ」と、もちろん共に冗談で申し上げた。結局は、普通に皆さんと一緒にお勤めして、またご法話もさせていただけた。中には、しっかり『お正信偈』を声を出して、お念仏も称えてくださる方もあって、うれしかった。

 そのうち、「人生も最終盤、子供たちに何を残るのか」という話題になった。お金や家を遺す、仕事を遺す、中には借金を遺す方も、悪名を遺す方もあるかもしれない。。でも、ほんとうにいざとなった時、私たちは、何を子供たちに相続させいくのだろうか。「結局、平穏な人生が一番ですね」というような話ではない。

 税務署からも睨まれず、保管場所にもこまらない。それでいてこの上ない宝は、阿弥陀さまのご本願のお法りであり、私の口をついて出る「南無阿弥陀仏」である。どうぞ、ご法のご相続をお伝えくださいと、結ぶことができた。

 聖典講座まであまり時間はない。でも不思議なことに、こんな時は集中力が増す。おかげで、講義に間に合って完成することができた。いよいよ「大無量寿経」も流通分(るずうぶん・結語)に入って、今月で終わる。 

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広島支部法座~人身受け難し~

  「法に遇う」をテーマにしたご法話。
 今回は、御文を載せたプリントを作ったのでちょっと分かりやすくなったのではないか。

 いま作製中の増井悟朗先生の『法に遇う』からのご法話である。今年の華光大会での増井悟朗先生の一周忌の集いでお配りするために、昭和59年の58歳の時の誌上法話に手を加えたものだ。当然、その通りとはいかないので、同一テーマでのご法話ということだ。

 法話では本にはない、「つめの先の砂」の話もした。釈尊と阿難尊者の問答。数多い衆生の中で、人間に生まれることは稀であり、ましてやその中で仏法を聞くことはますます難しいことだという、おたとえである。

 座談会では、「礼讃文にも『人身受け難し、いますでに受く』とあり、受け難い命をいただいいる不思議とはよく聞きますが、それをもったいないという実感がありません」と仰る方があった。

 うわべの味わいならそのまま当たり前とスルーしていくが、改めてそう言われれば、日常の生活は発言通りではないか。普段は、みんな自分の力で、精一杯生きているわけである。そして生きること自体が辛いという方もあれば、中にはこの世に生まれてきたのも、別に望んだわけではないといわれる方もある。結局、何事も当たり前だと思っているのだから、当然、愚痴は出る、不平不満の毎日を、うつうつと過ごしているが現実ではないか。仏智からみれば、いま、私がここにいることは、実は有り難く、ほんとうは稀なることなのだか、凡夫の私にはそれが分からないというのである。まして仏法を聞くことの難しさをやである。

 真実が真実と認識できない。だから、迷っているのだといわれる。

 実感がないということは、その真実を知らないということである。知らないのならどうするか。よく知っておられる方から、真実をお聞かせいただくのである。それも、出来る限り、わが身に引き寄せて、具体的に聞かせていただくのだ。「おれがおれが」で我武者羅に生きているが、実は、何一つとして自分ひとりの力で成り立っているものはない。今日、ここまで生かせていただくには、どれだけの命を犠牲にし、大恩を蒙ってきたことだろうか。そしてそのことを忘れぱなしで、まったく実感もないほどの迷いが深い、ご恩知らずの私であることを聞かせていただくしかないのである。

 阿弥陀さまは、そんな私をしっかりとみそなわし、よくよく知ってくださっているのである。そこで生まれたのが、南無阿弥陀仏のお名号ひとつで救われていく道なのである。そこを聞かせていただくならば、私の側の感じなどには、まったく用事はなくなるのである。

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お久しぶりです

 先日、十数年ぶりに来館くださる方があった。子供大会から、家族を含めての長いお付き合いで、懐かしくてうれかしった。

 悟朗先生が亡くなられたことでお悔やみにお出でくださる。それも、親戚の葬儀の帰りに、高い敷居を超えて会館にお参りくださったのだ。お寺の坊守さんになられても、その雰囲気は変わらない。「ぜひ今度は法座に」とお誘もしている。

 親しい方が亡くなったことは、ほんとうに悲しく、寂しいことだ。しかし、そのことを契機として、きっと亡くなった方の促しで、また再びつながりが世界があることが、仏法の尊いところだ。

 そんなつながり、縁(えにし)を大切にしていきたいものだ。

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高崎山でシャーロット

Img_6520 福井のN夫妻とお別れして、時間まで高崎山へ。

 ここも40年ぶりである。ここは国立公園・高崎山自然動物園というのが名称らしい。

Img_6489 歩きはしんどいので、さるっこレールというモノレールのようなほのぼのした列車にのって、エサ場へ。

Img_6501 高崎山は野生の日本ザルの生息地で、その餌付けに成功して、いまや世界で最大級の群生サルと接することの出来る場所となっている。飼育ではないので、あちらImg_6478こちらに出没して、間近にみることができる。もちろん野生ではないので、目をじっと見ないとか、食べ物ださないとかの注意があった。こんな人もいるのかどうか知らないImg_6452が、「決して持ち帰らない」とのこと。当たり前だけどね。

 エサ場でのエサよりは、なかなか迫力がImg_6465ある。ぼくの股の下も、何度もサルが通り抜けていった。うまいものである。

 群を率いるボスは堂々として、人間がみImg_6472ても、態度といい、体形といい、ボスザルの風格がある。ボス以外にも、順位づけはあるが、メスを束ねる婦人会長なるサルもいた。秩序だった社会集団を形成しているのである。

Img_6468 でも、ちょっと前にこの高崎山を有名にしたのは、シャーロットと命名された赤ちゃんザルだ。たまたまイギリス王室の赤ちゃんにあやかり、人気投票で命名されたのが、「王室を愚弄する」「不敬だ」などとネットを中心に批判がおこり、ちょっとした騒ぎとなった。結局のことろ、イギリス大使館や本家王室から、別に使用は問題はなしとのことで、一見落着した。Img_6515いまから思うと、あの騷動はなんだったのでしょうね。とっても今日の日本的な騒動だった。

 1000頭近くの群の中で、分かるはずなどないと思っていたら、ちゃっと目の前に現れてきて、Img_6513_2「この子が、シャーロットです」との説明までもある。、説明役の女性にしっかり懐いて、エサ係の女性にもしがみついていた。逆に宣伝効果は大きかったようだ。

Img_6497 別にサルたちがいるだけのことだが、童心に戻った気分になる場所だった。ところで、観光客で賑わい、サルも群生しているが、禅宗のお寺の所有地になっている。

 たまたま歩いてた禅僧に、Tさんが、「ここで接心もされるのですか」と尋ねられたら、「ハイ、もう気になりません」とお返事。

 サルの記憶はあるけれど、お寺の記憶はまったくなかったなー。

 

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地獄で恵信尼公

Img_6420  別府の地獄は、100度前後の噴気や熱泥、熱湯が噴出し硫黄臭も漂い、誰も近づけず、当然、農作物もできない荒れ地で、地獄と名付けれたという。その地獄を鎮めた高僧が一遍上人で、そのゆかりの永福寺が、別府八湯でも有名な鉄輪(かんなわ)の地獄の中にひっそりと建ってImg_6406いた。これは地元のTさんならではご案内くださった。ところで、城崎温泉にも、下呂温泉にも、温泉寺があった。有名な温泉はだれか高僧が開いたという伝承がつきもので、聖徳太子や弘法大師が特に有名だが、新潟の赤倉温泉は親鸞聖人というので、驚いたことがある。ここは、温泉山永福寺という時宗である。

Img_6409 観光寺院ではないので日頃は本堂は閉まっているようだが、その本堂から私たちを手招きくださる女性がおられる。「いま、ご住職もおられるから、どうぞ」と。ためらっていたら、ご住職も出て来られてImg_6421_2「皆さんのご宗派はどこですか」と、お尋ねになった。ちょっとびっくりしたが、「浄土真宗です」と答えると、「ちょうどよいときに御参りされました。どうぞ、お入りください」とお勧めくださった

Img_6407 本堂の壁には、地獄・極楽の道筋、いわゆる冥土の旅の絵が飾ってあったが、これは、法座の初日に話したところだ。でも、一番、驚いたのは、親鸞聖人の奥方さま、恵信尼公のお像が安置されているのだ。日頃は、お厨子の中に収まっているが、年に1、2度、このように前に誰さてImg_6418来るそうで、それがたまたま今日だったというのである。私たちが声に出してお念仏し、熱心に話を聞くので、ご住職はとても喜んでくださり、突然、音楽を流しだされて十念に唱えながら、無邪気に踊りだされた。時宗の踊り念仏を実演してくださったのである。ぼくも、お念仏の唱え方などを尋ねてものだから、解説のコピーをくださるなど歓待をうけた。

Img_6410 では、なぜ、別府に縁もゆかりもない恵信尼公玉日姫さまの像があるのか。

 実は、古くからこの地に筑豊の炭坑関係やその奥さんが長期の湯治こられていた。彼らは熱心Img_6413な門徒で、時宗のこのお寺でも浄土真宗のお説教が開かれ、女性たちを中心に「恵信講」が持たれていた。それが大正5年に稲田草庵(西念寺)で、玉日公(すなわち恵信尼公)大遠忌があり、ここの住職がImg_6423代表して、茨城県の稲田草庵まで、皆さんが喜捨された百圓を届けたというのである。当時としては大金で、しかも遠く離れた地で、恵信尼公を顕彰する講があるということで、西念寺からこの恵信尼公玉日姫像がおくられたというのである。その領収書兼譲りImg_6414状を拝見させていただいたが、こんな記録が残っているのもすごい。あわせて、なんと恵信尼公の遺髪が、たいせつに保存されていたのだ。もっとも毛髪に関しての真偽は不明だが、とにかく、まさか九州別府で、恵信尼公像、その遺髪を拝ませていただくことになるとは、まったく感無量。

 まさに、地獄で恵信尼公。

 

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地獄めぐり

Img_6270_2_2 Tさんが、地元の別府を案内くださる。最近まで住んでおられたこともあって、詳しい説明付きだ。

 別府といえば、地獄巡りだ。まず、連れられた地獄は「坊主地獄」。しかも単なる坊主地獄ではない。「天然坊主地獄」で、天然記念Img_6281物に指定されている。地獄パスボートを見せると、「地獄組合に入ってませんので、別料金です」との返事。昔から、孤高をImg_6292守っておられるようだが、そのせいか他に観光客はいなかった。

 すぐ近くにある海地獄へ。コバルトブールが鮮やかだ。色だけならクールで涼しげだImg_6322が、たいへんな高温で98度あるという。常に沸騰寸前ということか。ここには、「毎日が地獄です」Tシャツが面白かったが、高Img_6313山の某ご兄弟のお土産になっていた。

 海があるなら、山地獄も隣接している。が、ここも地獄組合には入っておられない。こちらは最近離脱されたようだ。いろいImg_6341_2ろと地獄間で揉め事があるようで、パスボートが通用するのは七ヶ所で、八大地獄Img_6376ではなくなったようだ。

 別の坊主地獄もあったが、こちらは天然記念物にImg_6374は未指定だ。ということは、天然ではないのImg_6400か。天然でないのならなになのかと不思議に思う。

 少し離れた場所にある血の池地獄だが、曇天ということもあって真っ赤というわけでもななった。天然記念物に指定されている竜巻地獄は、間欠泉で、定期的な間隔で100度の熱湯を5~6分、噴出し続けていた。あとは鬼がいたり、ワニがいたり、1ヶ所Img_6401で、海に血に、白に、坊主と揃っているところもあって、いろいろと指向を工夫しているようだか、Img_6356結局、似たり寄ったりだった。

 実は、別府の地獄めぐりをするのは、小学校5年生に家族でImg_6371回って以来で40数年ぶりだ。法座も含めて、福岡、熊本、大分と、10日間で周遊したので、大分もかなり回った。疲労からか帰Img_6403_1_2路のフェリーで喘息(初めて)になり父の慈愛に触れる旅ともなったので、とにかく印象深い。そのときは、たぶん山地獄は組合に入っていたのか、ミニ動物園のようなものをみた記憶がある。あとは、真夏でとにかく暑かったのもよく覚えていて、40年以上立っても、非日常の現地にたつと甦るのが不思議だった。
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    ≪コバルトブールの海地獄≫
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     ≪血の池地獄≫
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